盛暑の岩手・青森紀行(八)-下北半島の夏(上)-
この間書き継いできた「盛暑の岩手・青森紀行」も、ようやく終わりが見えてきた。当初はもっとのんびりと旅日記を綴るつもりだったのだが、人文科学研究所の『月報』に掲載してもらうためには、原稿の完成を早めなければならなくなった。これはやむを得ない事情である。それと同時に、旅日記のような文章を連載するとなると、意外なことだが、続けて書いていく方が書きやすいということもわかってきた。頭が調査旅行に向かい始めたならば、あまり間を置かない方がかえっていいような気もするからである。あちこちに気持ちが移ってしまうと、どうしても元に戻すのが面倒になる。
そう思って書き継いできたのだが、年寄りの周りにはいろいろなことが起こるもので、ちょっとブログに向かう気持ちになれない事態が生まれた。そんな時には、頭を使わない単純作業に取り組む方がいい。そこでこの機会にと思って、「店主の写真帖」の続きをブログにアップすることにした。今回は花の写真を6回に分けて載せてみた。「美しき惑い」と題した花々の写真を眺めていると、塞いだ気持ちがゆっくりと伸びやかになっていく。そんなわけで、のんびりとブログに向かうのは、心配事がなくなり今回の旅日記を書き終えてからの愉しみに取っておくことにした次第。
調査旅行の二日目の午後に、われわれ一行は盛岡を離れ八戸に向かった。ここで岩手県から青森県に入ったことになる。そして八戸に泊まった翌日の午前中に、海猫の生息する蕪島(かぶしま)に建てられていた神社や、安土桃山時代の城であった根城(ねじょう)、それに十和田現代美術館を巡った。根城はいわゆる天守閣があるような城ではなく、いくつかの曲輪(くるわ、城の内部を区画した空間のこと)からなる平城(ひらじろ)である。紺碧の夏空のもとに広がる緑の芝生があまりにも目に鮮やかで、そちらばかりが印象深かった。あちこち巡ったなかでとりわけ興味を抱いたのは、十和田現代美術館である。
北東北の外れに現代美術館があるということ自体が、私にはいささか奇異に思われたのだが、そんなふうに感じたのはこちらが常識に囚われた人間だからに違いなかろう。館内に入ってみれば、「現代アートの先端的で最良の作品展示を行い、十和田を日本有数の魅力的な文化の街にします」との思いで作られた、なかなかに意欲的な美術館だった。最も面白かったのは、レアンドロ・エルリッヒの「建物ーブエノスアイレス」という作品だった。床と水平に置かれたヨーロッパ風の建物の上で自由にポーズをとると、斜めに立ち上がる巨大な鏡には、重力から解き放たれたような光景が映し出されるのである。手前のスペースからはその様子を客観的に眺めることができ、建物の上の人々は、その視線を感じながら姿形を変えることができる。自分が作品の中に入り込むだけでなく、その場の人同士の見る/見られるといった相互関係も生まれることになる。何とも奇妙な体験であった。
館内のカフェレストランの一面ガラス張りの窓も、高い天井まであって実に広々としていたし、料理にも地元の食材が使われていて、あれこれと工夫が凝らされていた。美術館の前の並木道は歩道も幅広くてベンチも所々に置いてあり、通りの向かい側の野外にもさまざまな作品が展示されていた。もしかしたら、この辺り一帯を一大芸術空間として演出しようとしていたのかもしれない。
午後に向かったのは、三沢市にある寺山修司記念館である。もうすぐ下北半島に入ろうかといったところにこの記念館はあった。彼は多才を超えて奇才あるいは異才の人であり、時代の最先端を生きたアバンギャルド(前衛)の人であったから、十和田現代美術館に続いて廻るに相応しい場所ったかもしれない。寺山は1935年に青森の弘前市で生まれた。1945年、彼が9歳の時に青森大空襲で焼け出され、三沢にあった親戚の家に間借りすることになる。この年に父は戦病死。
51年に青森高校入学、54年に早稲田大学に進学し、1年の時に「チエホフ祭」で第2回「短歌研究」主催の新人賞を受賞。1967年には演劇実験室「天井桟敷」を設立。変わったところでは、1970年に漫画「あしたのジョー」における力石徹の死を悼み、喪主として葬儀を挙行。1983年に47歳で死去。彼もまた早すぎる死を迎えた。そして、彼の死とともに「天井桟敷」は解散した。
その間の才気溢れる縦横無尽の活躍については、先の『ちくま日本文学全集』の巻末にある年譜を見てもらう方が分かりやすかろう。活躍の場は世界にまで広がり、そしてまた彼の人生は夥しいまでの受賞歴に彩られていることがよくわかる。とりわけ演劇における才能が高く評価され続けていたからである。今ついつい常識のままに早すぎる死と書いてしまったが、時代を疾走しそしてまた時代の寵児のままに亡くなっのだから、実は彼らしい死であったと言えるのかもしれない。
ふとそんなことを思ったのは、『書を捨てよ、町へ出よう(角川文庫、1975年)の冒頭に、次のような文章があったからである.。そこには、「どうして親父たちが速いものを嫌いなのかといえば、それは親父たちが速度と人生とは、いつでも函数関係にあるのだと思いこんでいるからである。あらゆる速度は墓場へそそぐ―だからゆっくり行った方がよい。人生では、たとえチサの葉一枚でも多く見ておきたい、というのが速度ぎらいの親父たちの幸福論というわけなのだ」。「速さにあこがれる」寺山にしてみれば、私のような年寄りたちのいかにも悠長で冗漫な幸福論など、糞食らえとでも思っていたことだろう。生き急いで当然なのである。
ところでこの記念館であるが、建物の外観や赤い扉の入口にも、受け取った縦長の赤いリーフレットにも、机がたくさん並べられた館内の展示にも、説明に当たってくれたガイドの方の溢れるような語り口にも、何故だか寺山修司という生身の人間の発する体臭のようなものが感じられた。記念館のすべてを通して、生前の彼を再現してみたかったのであろうか。今でもいる彼の熱烈なファンなしには、こうした記念館はできなかったであろうと思われた。
ここで、先に出てきた力石徹の葬儀について一言。当時マスコミでも話題になったから、喪主が寺山であったことは知っていた。彼は、昔ボクサーを夢見たほどの熱烈なボクシングファンだったので、喪主になったりもしたのであろう。少年院時代からの矢吹丈の宿敵であった力石徹。二人の死闘がリングで繰り広げられ、試合には力石が勝つ。しかし、過酷な減量がたたって試合直後に力石は絶命するのである。私もいっぱしの「あしたのジョー」(高森朝雄、ちばてつや作)のファンだったので、漫画もテレビも映画も見た。テレビの主題歌の作詞者は寺山修司、歌っているのは尾藤イサオ。先の二人の主人公だけではなく、丹下段平、マンモス西、白木葉子らも懐かしい登場人物である。その後私は単行本化した漫画を全巻揃えた。あれから大分時間が経つというのに、青春時代の名残りででもあるかのように、今でも捨てられないでいる。
ところで、この記念館の成り立ちについてはリーフレットに次のように記されていた。「寺山の母はつ氏より三沢市に寄贈された遺品を、保存公開するために約3年の歳月をかけ建設されました。寺山修司と親しかった粟津潔氏のデザインをもとに、九條今日子氏をはじめとする元天井桟敷のメンバーなど数多くの関係者のアドバイスを得て平成9年7月に開館を迎えました。延床面積約833㎡の展示棟とホワイエ棟が渡り廊下でつながり、上空から見るとその様はテラヤマ演劇・映画の小道具としてし登場した「柱時計」を彷彿とさせます。ホワイエ棟外壁には149枚の陶板が貼り込まれ、寺山氏と交流のあった約30人のメッセージ陶板がテラヤマ作品を題材にしたものとともに、にぎやかに彩っています。テラヤマ芸術はもとより、当市の総合芸術発信基地としての一翼も担っています」。 寺山の友人たちが深く関わった記念館だと知って、「寺山修司という生身の人間の発する匂いが感じられた」わけがよく分かった。また、リーフレットには、以下のような文章も大きな活字で描かれていた。
その晩遅くなってからわが家に火事があり、近所の家まで焼けてしまった。警察では漏電だといったが嘘だった。ほんとはおれが机の引き出しにかくしておいた一匹の蛍が原因だったのだ。自伝的映画「田園に死す」で主人公にこのように語らせた寺山修司はまた 「テーブルの上の荒野」という歌集を作るほどに、「机」という言葉に限りない広がりを持たせようと試みたりもしました。そして1983年5月4日、その寺山修司は、何もかもを机の引き出しに置き忘れたまま、自分の存在を不確かなものとして旅立っていったのです。この記念館はそんな寺山修司を「探す」ことを展示構成の基本としています。詩に、短歌に、俳句に、映画に、演劇に、写真に、スポーツに、メルヘンに-。旅立っていった寺山修司の足跡はさまざまなところにさまざまな形でたくさん残されています。みなさんどうぞ「机の引き出し」を開けてみて下さい。消えていった寺山修司を探して下さい。かつて、さまざまな所に寺山修司はいました。寺山修司は多くのものに興味を抱きました。そして、これだけたくさんの足跡を残したのです。これだけ多くの足跡を残した寺山修司は本当に一人だったのでしょうか? 本当に消えていったのでしょうか?いや…
通常の記念館とはひと味もふた味も違った、何とも謎めいた文章ではないか。リーフレットには、他にも、短歌や俳句に加えて、寺山の作詞でカルメン・マキが歌ってヒットした「時には母のない子のように」(1969年)の歌詞も掲載されていた。作詞と言えば、彼はまた数多くの歌手に歌詞を提供している。日吉みみが歌ったひとの一生かくれんぼ」というタイトルの曲もなかなか印象深い。しかし、それはリーフレットにあった詩とは大分違っている。当然とはいえこちらの詩の方が味わいがある。
ひとの一生かくれんぼ
あたしはいつも鬼ばかり
赤い夕日の裏町で
もういいかい
まあだだよ
百年たったら帰っておいで
百年たてばその意味わかる
かもめは飛びながら歌をおぼえ
人生は遊びながら年老いてゆく
人はだれでも
遊びという名の劇場をもつことができる
どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできないだろう
わかれは必然的だが
出会いは偶然である
野に咲く花の名前は知らない
だけど野に咲く花が好き
人生はたかだか
一レースの競馬だ!
なかなか凝った作りのリーフレットを眺めながらふと思ったことは、寺山修司はこうした記念館が作られることを望んだであろうかという疑問である。「人生はたかだか一レースの競馬だ」とまで書く彼のことだから、恐らく望まなかったのではないかと思われた。「そんなものはいらねえよ」ぐらいのことは言ったような気がする。しかも彼は、愛憎半ばする母親の軛(くびき)から逃れたかったのだから、母親が収集・保存していた遺品を並べた記念館など糞食らえと思っていたとしても不思議ではない。亡くなった父を詠んだ歌がたくさんあるところを見ると、彼の原風景は父の不在と母の呪縛にあったのかもしれない。
寺山が時代の寵児となっていた1960年代から70年代に、私もまた「大学紛争」の時代を過ごした。この頃の時代の匂いは私の記憶にも染みついており、その匂いは大学の教員になってからも消え去ることはなかった。教員になってから、私は自己紹介も兼ねてゼミ生に以下のようなゼミナール紹介文を渡していた。「大学の教員なるものは、えてして『わけしり』や『ものしり』となり、若い学生諸君に対する説教と自慢話に明け暮れがちなものであるが、そうした姿はあまりにも見苦しい。『賢者は学びたがり、患者は教えたがる』という箴言を忘れずに、人間皆チョボチョボの存在であることを肝に銘じて生きていきたいものである」。「生理的に好きになれないのは、常識を疑わない非常識な人物、羞恥心のかけらもない厚顔無恥な人物、ただ明るいだけの脳天気な人物など。大学で学ぶのだから、お互いに『常識に囚われない自由な精神』をもっともっと大事にしたいものである」。「らしくない」ということに拘ったこんな言い種にも、学生の頃の時代の残滓が感じられる。
記念館の見学を終えて、ドアを開けて外に出たら、何故だか当時のことが急に鮮やかに浮かび上がってきた。私も含めてあの当時若者だった人々は、その後何処でどのようにして暮らしているのだろうか。そんなことを思ったら胸がいっぱいになった。寺山という時代のカリスマがいなくなれば、周辺にたむろしていた人々は散り散りばらばらとなる他はない。彼が言うように、出会いは偶然だが別れは必然なのだから。寺山が作詞した「あしたのジョー」の主題歌には、「あしたはきっと何かある あしたはどっちだ」とあるのだが、今の私などは、「何かある」とも思えなくなり「どっち」に行けばいいのかも分からなくなっている、とでも言えばいいのか。
反「常識」、反「権威」、反「正義」のままで、その後の人生を生き延びることは難しかったに違いなかろう。生きるためには、自分自身の常識や権威や正義を打ち立てなければならないからである。彼は、人は「遊びながら年老いてゆく」のであり、「人生はたかだか一レースの競馬」に過ぎないとまで言う。寺山らしい物言いである。だとするならば、一幕物の劇はとうの昔に終演を迎えただけのことだということになるのであろうか。この私も、道楽に耽って「遊びながら年老いてゆく」に違いないし、既にレースも終えたので人生という舞台から退場するのも間近である。
彼の第一歌集となる『空には本』 には、青春時代を歌った短歌が数多く収録されている。もっともよく知られているのが、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨すつるほどの祖国はありや」だが、「むせぶごとく萌ゆる雑木の林にて友よ多喜二の詩を口ずさめ」といった作品もある。ともに抒情に溢れた歌なのに、「祖国」や「多喜二」が読み込まれることによって、その歌が一気に社会性を帯びていく。その反転が、若き日に世の中に身を投じようとしていた自分自身をも彷彿とさせる。青春とは、叙情性と社会性がメダルの裏表となっているものなのだろう。
あるいはまた、「草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ」、「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ」、「わが夏をあこがれのみが駈け去れり麦藁帽子を被りて眠る」などの歌も、遠く過ぎ去った若き日の自分の姿をありありと浮かび上がらせる。散り散りばらばらとなってしまった人々は、今でもこうした歌を覚えているであろうか。記念館の入口の写真が思いの外よく撮れたので、これを近く開催される写真展に出品してみたいと思った。タイトルは「寺山修司に逢いに」とでもするつもりである。

