盛暑の岩手・青森紀行(五)-花巻と盛岡の三人(上)-

 前回のブログでは、こちらまで佐々木喜善に入れあげてしまったが、あれこれ書いているうちに、菊池寛に「無名作家の日記」という作品があったことを思いだした。そこには、「俺は此の頃、つくづくある不安に襲われかけて居る。夫は外でもない、俺に将来作家として立って行くに十分な、天分があるか何うかと云う不安だ。少しの自惚れも交えずに考えると、俺にはそんな物が、一寸有りそうにも思われない。東京に居る頃は山野や桑田や杉野などに対する競争心から、俺でも十分な自信があるような顔をして居た。が、今凡ての成心(せいしん、先入観のこと)を去って、公平に自分自身を考えると、俺は創作家として、何等の素質をも持って居ないように思われる。 俺は、文学に志す青年が、動もすれば犯し易い天分の誤算を、やったのではあるまいかと、心配をして居る。此の事を考えると嫌になるが、青年時代に文学に対する熱烈な志望を語り合い、文壇に対する野心に燃えて居た男が、何時が来ても、世に現われない事ほど、淋しい事はない」とある。こうした文章を読んでいると、何やら喜善が感じていた世界のことが描かれているようにも思えてくる。

 今回の旅では、遠野で佐々木喜善と伊能嘉矩にであったが、花巻や盛岡でも重要な人物に出会った。調査旅行の初日には、花巻にある宮沢賢治記念館で宮沢賢治(1896~1933)に出会った。盛岡の繁華街にある「もりおか啄木・賢治青春館」では、石川啄木にも出会った。さらに、盛岡にある岩手県立美術館では、松本竣介(まつもと・しゅんすけ、1912~1948)と萬鉄五郎(よろず・てつごろう、1885~1927)に出会った。画家の作品を観るのに出会ったはないだろうと思われるかもしれないが、敢えてそう書いたのは、この美術館に松本と萬の自画像が展示されていたからである。

 ここで主に取り上げたいのは、花巻の宮沢賢治、盛岡の石川啄木と松本竣介の三人である。まずは宮沢賢治から取り上げてみる。私小説が好きな私のような視野狭窄の人間にとっては、彼が何やら得体の知れない人物のようにも見える。正直に書けば、賢治の関心の射程が広がりすぎているので、追いつけないのである。宮沢賢治記念館で手にしたリーフレットには、次のようなことが書かれていた。どの記念館もそうだが、どうしても顕彰する人物を立派に描きすぎるきらいがあるので、その辺りは割り引いてみなければならないのではあるが…。

 宮沢賢治の深遠な思想や世界観、気高い折りや願いは、生涯を買ぬくさまざまな表現と行動になって姿を現しました。深い思いに裏付けられた多彩な試みを理解することは容易ではありません。本館の展示では、その世界観や宇宙観を支える「心象」を鍵に、心象世界の映像を導入として、「科学」「芸術」「宙(そら)」 「祈」「農」の5つの部門によって表現と事績の具体像に迫り、合わせて時代や地域等との関わりであるフィールドや後に続く若い人びとに託した願いなどを添えて、全体像を感じとっていただけるようにしています。さまざまな資料と多くの作品とを手がかりに、宮沢賢治が見たまことの世界、イーハトーブの心象世界に触れてくださいますよう願ってやみません。

 私のような賢治のことをほとんど知らない人間には、まさにぴったりの記念館であった。賢治を知りたければ童話を読み、詩を読めばいいはずだが、ここまで足を運ぶと岩手をモデルにした理想郷イーハトーブに遊ぶような心地がした。記念館の入り口の側にあった「よだかの星」の彫刻碑も気に入ったし…。関心があった(というよりも、そこしか理解できないだけだが)「芸術」の展示には、「宮沢賢治は、それまでに誰も思いつかなかった考えと方法によって、多くの作品を生み、多彩で独自な世界をつくりだしました。詩約八百篇、童話約百篇、短歌約九百首、それに俳句、歌曲、 戯曲、短篇、絵画、教材用絵図、花壇設計などが、『新校本宮澤賢治全集」に収められています。人生そのものを総合芸術として受けとめる感じ方には、オペラや同時代に展開してきた映画表現との深い共鳴もありました」と書いてあった。とんでもない関心の広さであり、とんでもない作品の数である。「人生そのものを総合芸術として」受け止めようとした賢治の面目躍如と言ったところか。

  賢治が生前に刊行できたのは詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の二冊だけだったが、そのうちの『注文の多い料理店』を印刷したのが光原社である。社名は賢治自身の命名によるという。そこにも立ち寄ったが、今はもう民芸品店に姿を変えていた。この光原社のある通りでは、賢治ゆかりの彫刻などがあちこちに置かれており、それらもついでに眺めてきた。今では花巻や盛岡は賢治一色と言っても言い過ぎではない。だがそこには「注文の多い料理店」や「よだかの星」に滲み出ていたブラックな雰囲気は何処にも見当たらなかった。

 岩手どころか日本の超有名人となった賢治であるが、昔からそうだったわけではない。調べてみると、詩壇の一部には彼の作品を高く評価する者もいたようだが、終生文壇の圏外にあって岩手県で教師・農業指導者・技師としての活動を続けていたため、岩手を除けば生前はほとんど無名に近い存在であったという。没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られるようになり、世評が急速に高まって国民的作家となったとのこと。

 ここでは二編の詩を取り上げてみたい。一つは「永訣(えいけつ)の朝」であり、もう一つは「雨ニモマケズ」である。「雨ニモマケズ」をいつ頃知ったのかもはや記憶が定かではないが、「永訣の朝」は高校の国語の教科書で知った。私は早熟な文学少年などではまったくなかったから、それまでに読んだ詩と言えば、美しい言葉で紡がれた抒情的なものばかりであった。だから、最愛の妹とし子の死を凝視したこの詩が尚更印象深く感じられたに違いない。永訣とは長き別れすなわち死別のことである。この詩は次のように始まる。

けふのうちに                                                                 とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふって                                            おもてはへんにあかるいのだ                                                                (あめゆじとてちてけんじゃ)                                                          うすあかくいっそう陰惨な雲から                                                           みぞれはびちよびちよふってくる                                                         (あめゆじとてちてけんじゃ)

 「永訣の朝」をいっそう忘れがたくしているのは、方言で書かれた「あめゆじとてちてけんじゃ」(あめゆきを取ってきてください)であろう。死を前にした妹の最後の頼みである。この言葉が何度も繰り返される。さらに悲しみを深くするのは、途中に挟まれた「Ora Orade Shitori Egumo}(私は私で一人で行きます)であり、「うまれてくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる」(今度生まれてくるときには、こんなに自分のことばかりで苦しまないように、生まれてきます)であろう。

 とし子は何故一人で行くと言うのか、とし子は何に苦しんでいたのか、この詩を初めて目にした時には何も考えなかったが、そこにはスキャンダルとして地元の新聞に報じられた彼女の初恋とそれ故の失恋があった。盛岡高等女学校の秀才であったとし子と同校の音楽教師との恋愛が、複雑な政治的背景をともなって地元に事件として知れ渡っていくのである。とし子の悩みと苦しみはいかばかりだったか。その辺りのことを、「修羅を生きた詩人」の副題を持つ今野勉の『宮澤賢治の真実』(新潮文庫、2020年)で初めて知った。

 この本は、生半可な賢治ファンではとても書けない内容で満載である。並外れてマニアックな本だとでも言えようか。裏表紙には次のような文章が書かれていた。本文を一読するとわかるが、とても大袈裟とは思えない。「猥、嘲、凶、呪・・・不穏な文字が並ぶ詩と出会い、著者は賢治の本心を探り始めた。信心深く自然を愛した自身をなぜ『けだもの』と呼んだのか。醜聞にまみれ病床でも自己内省を続けた妹の姿に何を思ったのか。名作「銀河鉄道の夜」の中にどんな欲望を秘めていたのか。緻密かつ周到な取材による謎解きの果て、修羅と化した賢治の”真実”に辿りつく。執念が実った圧倒的ノンフィクション! 」。世の中には恐ろしい人がいるものである。修羅を生きた賢治の秘密を徹底的に探ろうとするこの著者もまた、修羅の人なのか。

 次に取り上げるのは「雨ニモマケズ」である。これはもともと詩として書かれたものではなく、賢治が使用していた黒い手帳に鉛筆でメモ書きのように記されていたものである。1931(昭和6)年に花巻の実家で病で伏していた際に書かれたものだという。心象を描いた賢治の詩は結構難解で、私などにはそう簡単には解読できないが、「雨ニモマケズ」はまったく違う。あまりにもわかりやすい。表現が何とも具体的であり直裁である。修羅の人である賢治が、自分に素直に言い聞かせた呟きだったのか。それもまた賢治の生身の実像を知る手掛かりとなるはずだが、詩人や評論家からは作品としては軽んじられることになる。先の筑摩の文学全集にも収録されていない。

 しかしながら、「雨ニモマケズ」ほど賢治の名を世に広めたものはない。今でも全国民に知られた不朽の名作として取り扱われている(はずである)。先の宮沢賢治記念館にも、「雨ニモマケズ」関連のグッズがたくさん並べられていた。何故そうなったのか。そこが知りたくてあれこれと調べてみた。そうしたら、NHKテキストビュー欄に「なぜ『雨ニモマケズ』は国民的な文学となったのか」と題して、次のような解説があることを知った。大変興味深い内容だったので、紹介しておきたい。

 賢治の死後に発見された「雨ニモマケズ」は、戦争に向かう時局と相まって、さまざまな機会においてスローガンのように使われるようになりました。日本人の美徳を表す代表的なテキストのように読めるため、ちょうどよかったのでしょう。「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」というところが、戦後すぐの時代、中学校の国語教科書に掲載されるにあたり、玄米四合は食料が不足していた当時の実感とかけはなれているとして、三合に変えられたという逸話もあります。発表する意図のなかった「雨ニモマケズ」がここまで国民のあいだに広がったことは、心象スケッチこそが自分の芸術だと考えていた賢治の立場からすると不思議なことであったと言えるかもしれません。
 一方で、見方を変えると、宮沢賢治のテキストそのものが不思議であるとも言えます。戦時中のスローガンなどに利用したつもりでいて、実はテキストの生命力に我々の方が利用されていたのではないでしょうか。戦中に大政翼賛会が発行する雑誌にまで掲載された「雨ニモマケズ」は、戦前・戦中の価値観が否定された戦後にも教科書に載って生き続けたのです。戦争には勝てませんでしたが、「マケズ」というところがまた日本人の心理にフィットし、戦後の人々の心の支えになっていたのかもしれません。「雨ニモマケズ」は、テキスト自身が時を超え、時代を貪欲(どんよく)に食って生き残ってきたとも言えるのです。