盛暑の岩手・青森紀行(二)-オシラサマ、ザシキワラシ、カッパ-
これまで毎週のように投稿していたものを月2回の投稿に変えたが、今回はその3回目ということになる。9月には裸木第9号の『カメラを片手に』が出来上がり、この私も78歳の誕生日を迎えたので、変更するにはちょうどよいタイミングだったかもしれない。しかもこの9月から、「盛暑の岩手・青森紀行」を書き始めることになった。大分ゆとりができてきたので、落ち着いてあれこれ調べながら書き継いでいけそうである。出だしは上々と言ったところか。ただし、ゆとりができた分だけ長話になりそうな心配がないではないのだが…。
遠野に伝わる民話の世界をリアルに体感できるのが、伝承園である。ここでは、ザシキワラシやカッパに関する資料を見たり、せっかくだからと近くにあったカッパ淵まで足を運んでみた。いるわけはないが、茂みに覆われて薄暗い場所なので、いかにもいそうな気配だけはあった。水量が少なかったので淵らしい感じは今ひとつだったが、夜に一人で来たら案外怖い場所に映るのかもしれない。側には「河童淵 秋色秋声 流しをり」と刻まれた句碑が建っていた。いい句だなあと思って帰宅してから作者を調べてみたが、なかなかわからない。ようやくにして、高浜虚子の五女である高木晴子の作だとわかった。昨日の雷まで伴った猛烈な土砂降りも去って、これからはようやく本格的な秋色秋声の季節に入るのであろう。
伝承園で最も印象が深かったのは、やはりオシラサマを祀った御蚕神(オシラ)堂であった。馬の頭と娘の頭が彫られた30センチほどの細長い棒が無数に立てられ、そこに穴の開いた小さな四角い布が何枚も何枚も被せられていた。着衣ではないのでこれをオシラサマ着布というらしい。もらったパンフレットにはそう書いてあった。その布にはさまざまな願い事が書かれており、われわれが見学した日が8月6日だったこともあったか、「核兵器廃絶」と書かれた布まであった。ところで、『遠野物語』に描かれたオシラサマの話は次のようなものである。
昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。 ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時よりなりたる神なり。(第69話)
娘が馬と夫婦になるとはどんなことなのだろう、父親が死んだ馬の首まで切り落とすような残酷なことをするのは何故なのだろう、昇天した娘は神となり桑の葉を食べる蚕になったのは何故なのだろう、そん疑問がぼんやりと頭に浮かんだ。娘と馬は夫婦として性的な関係にあったということだから、ズーフィリア(獣姦)だったのかもしれない。父親は、可愛い娘を自分から奪った馬をひどく憎んだのだが、その憎み方が何とも異様である。妻のいない父親の娘への溺愛が、常識を超えていた可能性もある。それに、蚕は確かに馬の頭に似ていなくもない。この世では許されざる禁断の愛に走った娘は、昇天して蚕の神となるしかなかったのかもしれない。そんなことを考えながら御蚕神(オシラ)堂を眺め回してみると、どこか不気味にも思えてくる。夜に一人で来たら、ここも怖そうな場所である。
まあしかしながら、民話をいちいち頭で分かろうとすること自体が、もはやずれているのかもしれない。いずれにしても、オシラサマは蚕の神、農業の神、馬の神として土俗的な信仰の対象となってきたのである。今年の春に人文研の調査旅行で出雲に出掛けたが、そこの境内にも願い事が書かれた絵馬がびっしりと下げられていた。それはそれでなかなか壮観だったが、そこには地元の人々が醸し出す暮らしの匂いはなかった。遠野のオシラサマとは違うところであろうか。
それほど関心が沸かなかった民話であるが、調べているうちに妙なことを発見するものである。例えばザシキワラシだが、佐々木喜善の『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(宝文館出版、2007年)によれば、ザシキワラシの正体は、殺されて家の中に埋葬された嬰児の霊ではないかという。東北地方では間引きを「臼殺(うすごろ)」といって、口減らしのために間引く子を石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所の下などに埋める風習があったといい、こうした嬰児の霊が、雨の日に縁側を震えながら歩いていたり、家を訪れた客を脅かしたりといった話が伝わっている。ザシキワラシに似た行為である。『遠野物語』に登場する座敷童の話は次のようなものである。
旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。折々人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。しばらくの間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。
ここには、ザシキワラシの生まれた根拠については何も触れられていないが、生きることが叶わなかった嬰児の霊が、人知れず奥の座敷で遊んでいたということなのか。このような間引きとの関連に加え、座敷童子のいる家が旧家であることや、村の外から訪れた巡礼僧を殺害した家が、後に没落したという伝承と結び付けられて語られていることから、座敷童子は村という閉鎖的な共同体の暗部を象徴しているのではないかとの指摘もあるようだ。
同じようなことはカッパについても言える。カッパ伝説は各地に伝わるが、ネットで検索してその想像図をじっくりと眺めていると、かなり不気味であり怖い。そう言えば、昔下の小僧が「ネネコガッパ」(利根川に住んでいたとされる雌の河童)を酷く怖がっていた時期があった。小心者だから怖いんだろうぐらいにしか思っていなかったが、そうではなかった。『遠野物語』にはカッパの話が何話か登場するが、以下のような話を知れば、怖さはさらに増すかもしれない。
川には川童(カッパ)多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて川童の子を孕みたる者あり。生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、 土中に埋めたり。その形きわめて醜怪なるものなりき。女の壻(むこ)塔の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に蹲(うずくま)りてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女の所へ村の何某という者夜々通うという噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺いたりしが、後には壻と寝たる夜さえる来るようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集りてこれを守れども何の甲斐もなく、壻の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、ある者の言うには、馬槽(うまふね、かいば桶のこと)に水をたたえその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻あり。この娘の母もまたかって川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずと言う者もあり。この家も如法の豪家にて〇〇〇〇〇という士族なり。村会議員をしたることもあり。(第55話)
上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産みたることあり。確かなる証とてはなけれど、身内真赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌まわしければ棄てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、はや取り隠されて見えざりきという。(第56話)
川の岸の砂の上には川童の足跡というものを見ること決して珍しからず。 雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。(第57話)
ザシキワラシは間引きで殺された嬰児の霊の話のようだが、川童の方は、醜く生まれた子供を殺して埋めたり捨てたという話である。今から考えれば酷い話ではあるが、因習や迷信に囚われていた当時の村々では、そうした奇形児は周りから祟りとして忌み嫌われたに違いなかろう。そして、捨てられた醜い子供は、カッパとなって転生したという話になったのかもしれない。殺されたり捨てられたりした幼子は、そのことを恨んでカッパとなり、生息する川で悪さをしたということであろうか。そうであれば、何とも悲しい話ではある。先の喜善の著作には、ザシキワラシの正体はカッパではないかとの話が伝わっているとも書き記されている。
遠野市の地図を広げていたら、伝承園からほど近くの所にデンデラ野と書かれたところがあった。調べてみると、遠野に伝わる姥捨て伝説の地であり、古くは蓮台野(れんだいの)と呼ばれていたが、なまってデンデラ野になったらしい。蓮台とは仏像の台座のことである。60歳を過ぎ役に立たなくなった年寄りが、口減らしのために仏様として捨てられた場所であり、『遠野物語』の続編である『遠野物語拾遺』によれば、こうした場所は村々にあったらしい。間引きされた嬰児や異形の赤子加えて、役に立たなくなった年寄りも捨てられたのである。当時の農村の貧しさ故であろうか。日本のふるさとと呼ばれ美しい景観が広がる遠野には、数々の哀しい物語もあったのであろう。そんなことを改めて知ってみると、遠野という地が、深い陰影を帯びた異界として浮かび上がってきた。