盛暑の岩手・青森紀行(七)-花巻と盛岡の三人(下)-

 最後に取り上げたいのは、画家・松本竣介である。彼とは、岩手県立美術館で出会った。建物のデザインがなかなかユニークで、広々としたこの美術館には、松本竣介と萬鉄五郎の二人の画家と彫刻家の舟越保武の作品を展示した特別コーナーがあった。三人とも花巻や盛岡とゆかりの深い人物だからである。舟越の彫刻には静謐で端正な作品が多く、それはそれで悪くはないのだが、私が興味を抱いたのは二人の画家、とりわけ松本竣介の方である。美術館はこれだけ広いのだから、喫茶コーナーぐらいあってもいいはずだが、それはなかった。代わりに、美術館の前には小高い丘があり、盛岡を取り囲む周囲の山々を眺めることが出来た。夏空に青い山々が映えていた。

 松本竣介と萬鉄五郎の二人だが、松本は36歳で萬は42歳で世を去っている。今回の調査旅行で出会った人々は、なんと早く世を去ったことであろうか。美術館には、二人の自画像が展示されていた。「Y市の橋」や「立てる像」、「画家の像」、「街」(私の好きな作品をあげただけだが)で知られる松本の「自画像」(1941年作)は、童顔の柔らかな表情の内に静かなる意志を秘めた作品のように思われた。それに対して、「裸体美人」や「水着姿」などで知られる萬の自画像は、「赤い目の自画像」(1912~13年作)と題されており、日本におけるフォービスム(野獣派)の先駆者らしく、かなり異様な作品だった。痩せた顔に赤を基調にした原色が激しく叩きつけられており、この自画像を観る者の方が、萬の赤く鋭い目で凝視されているようにも思われた。

 松本竣介と盛岡の繋がりだけを、まずは簡単に紹介しておこう。彼は1912年4月に渋谷で生まれた。1936(昭和11)年に結婚する以前の旧姓は佐藤(松本禎子と結婚して松本姓となった)。竣介は父親がりんご酒の醸造業に従事していたために、2歳の時に花巻にそして10歳の時に盛岡に転居した。盛岡は父の故郷である。俊介の家には、宮沢賢治が父を訪ねてきたことがあるとのこと。実家が豊かだったので岩手師範付属小学校に通い、1925(大正14)年に小学校を首席で卒業し、盛岡中学校(現・盛岡一高に入学。入学式の前日に頭痛を訴え、翌日に脳脊髄膜炎と診断された。この病気が原因で聴力を失う。

 竣介が2年の時に、上京していた兄から油絵の道具一式が俊介の所へ送られてくる。これがきっかけとなって俊介はで絵を描くようになる。中学2年の夏頃からスケッチに熱中するようになり、3年の時には学校に絵画倶楽部を作り、次第に絵の道を志すようになる。1929(昭和4)年に盛岡中学を3年で中途退学して上京。小学校の恩師佐藤瑞彦が自由学園に勤めていたため、その尽力で佐藤の隣家に家を借りて生活するようになる。そこから太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)へ通い始める。

 俊介には「盛岡風景」と題された絵がある。青を基調にした柔らかで伸びやかな絵である。しかしながら、盛岡を描いた絵はこの一枚だけのようだ。繊細で理知的な画風なので、やはり都会を描く画家なのであろう。だから、盛岡との関係はことのほか薄い。そんな修介にこの私は何故に興味を持つのか。戦時下という「狂気」の時代に、最後まで理性を失わなかった稀な画家だったからであろう。先の自画像が1941年に制作されていることに注目してもらいたい。俊介のファンは多い。社会科学研究所の元所長だった町田さんも、そしてまた、人文科学研究所の現所長である田中さんも、松本竣介が好きだと言っていた。

 先日、国立近代美術館に足を運んで「戦争記録画」を眺めてきた。「記録をひらく 記録をつむぐ」と題された大規模な企画展が開催されていたからである。展覧会の開催を知らせる大型のポスターに松本竣介の絵が用いられていたので、彼の作品がこの展覧会でどのように位置付けられているのか知りたかったこともある。因みに、この展覧会の図録は作成されていないとのことだった。何とも残念である。会場には、藤田嗣治や宮本三郎、鶴田吾郎などの著名な画家たちの戦争画に混じって、松本竣介の「並木道」(1943年作)と靉光(あいみつ)の「自画像」(1943年作)の二つの小品が飾られていた。戦時下にこうした作品が描かれていたことも、記録されてしかるべきだと考えられたからであろう。この二作の解説には、次のようなことが書かれていた。

 太平洋戦争中の1943年に、靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、 松本竣介の8名が集まって「新人画会」が結成されました。同年4月に第一回展を開き、44年9月の第三回展まで短期間とはいえ作品発表を継続しました、彼らは作戦記録画作成のために軍から派遣された中堅画家より下の世代ということもあって、戦争翼賛から距離をとった自主的な制作態度を貫きます。松本竣介はすでに1941年に「生きてゐる画家」を発表、軍の美術家への介入に対して異論を唱えました。この松本の姿勢と戦時下に制作された彼らの矜持を伝える作品群に対して、美術評論家の土方定一は戦後になって抵抗の画家という評価を与えました。

 私が持っている松本竣介の画集(1986年に下関市立美術館で開催された松本竣介展のカタログである)を開いていたら、「画家の像」に以下のような大変興味深い解説文が書かれていたことを知った。この絵は竣介と彼の家族を描いた大作であり、二科展に出品されている。描かれたのは1941年。妻と子供は座って背を向けているが、竣介自身は家族の側にすっくと立って、その表情は、視線の先に「狂気」の時代を見つめているようにも見える。どんな解説文だったのか。

 なぜ竣介は自らの姿をここで描かなければならなかったのだろうか。この年の雑誌「みづゑ」4月号に、竣介は「生きてゐる画家」というー文を投稿している。これは同誌1月号に掲載された軍郎と批評家による座談会記事「国防国家と美術」でなされた、国策に沿う芸術を鼓吹する論調に対する反論であった。ただし、反論といっても、すでに言論の自由すら奪われたときだけに「芸術家としての私達の営みは、人間としての本源的な問題に向けられなければならない」と延べ、偏執した国粋主義に対し、ひとまわり大きなヒューマズの立場をとりながら慎重に異を唱えたものであった。当時、内外の状況は警迫し、 国民を戦争へとかりたてていく体制が着々と築かれつつあった。これは、竣介にとってそうした状況に対する危機感や不安を抱きながらの逼迫した発言であったろう。そして、言語をもって正面から異をえる姿勢の背後には、かつて『雑記帳』刊行でつちかわれた社会に対する冷静で理知的な批評精神がはたらいていたことも事実であったろう。だが、一方でこの時代の作品は、たとえば風景画にみられるように、現実の風景を自らのうちにとりこみ、純化させ、ひとつの完結した世界をつくりあげようとしている。いわば、竣介は外への冷静な服差しと、絵画を媒介とする自己への沈潜という両面をもっていたといえるだろう。そして、今抑圧に対して、言語ではなく、絵画を通じて応じようとすれば、どのような表現が可能であったろうか。もとより声高な抗議は許されず、また現実からの逃避も拒否するとすれば、竣介が選びとった方法は、自分自身にたちかえり、この作品のように正面から状況を見揃える自身と愛情を注ぐ家族とを描くことではなかったかと思われる。たとえヒロイックに感じられようとも。 それは暗転する時代のなかで自己に誠実であろうとする、ひとりの人間としての表現であったと思われる。

 『四百字のデッサン』(河出文庫、2012年)の著者である画家の野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)は、戦時下の画家たちの右往左往をいささか皮肉を込め戯画化して次のように描いている。「一途に聖戦と思いこんだ画家と、聖戦をあげつらうことによって世に出ようとする画家と、中国や南の島に出かけて絵が描けることを喜んでいる画家と、こうでもしなければ画家の命を断たれるかと心配している画家」。面白い分類である。

 しかしながら、美術館に飾られていた松本竣介の「並木道」と靉光の「自画像」を眺めていると、この二人は野見山の分類する画家のどれにもあてはまらないことがよくわかる。壁の片隅に飾られたこの二枚の絵は、大作揃いの戦争画と比べれば、あまりにも小さく、何とも静かで、いかにも寂しそうである。疾風怒濤のように日本中を発狂させた「狂気」の時代をやり過ごすには、そうするしかなかったのであろう。そしてこの二人は、「狂気」の時代の崩壊を見届けるかの如くに、1946年に亡くなっている。

 美術評論家の酒井忠康は、「他者を介入させない心の領土」や「固有の不在圏」といった表現を用いながら、「人間の心を踏みにじる良心なき時代の現実をまのあたりにして、竣介は心のなかにかたく鎖(とざ)した固有の世界で挑戦状をつきつけている」と述べている。そして、「ひとつの不在圏つまりだれにも関与させはしないという自分自身の創造の場を、竣介ほどに戦争時代にあって自覚的に管理しえた画家はいたかどうか。やすやすと錠前をはずして己れの創造の場を軍靴の道端に晒した事実が歴史にきざまれている」のではないかと言う(『早世の天才画家』中公新書、2009年)。総力戦となった戦争では、すべてのものが「聖戦」の遂行に動員されたのであり、「不在圏」の存在は許されなかった。そうした時代にあって竣介が「不在圏」を維持しえたことは、高く評価されてしかるべきであろう。

 松本を「抵抗の画家」などと評することに、違和感を覚える向きもあるらしい。「抵抗」という言葉に何をイメージするかは人それぞれであろうから、私のような素人が別に特段のことを思うわけではない。だが、あのように繊細で理知的な筆致の画家が、時代に迎合することはできなかったであろうとは思う。事情は現在でも同じではないか。頭をあげ、背筋を伸ばして、自分の足で大地を踏みしめ、真っ直ぐに立つことが大切だということであろう。それなしには、「固有の不在圏」が生まれるはずもない。画集にあった「画家の像」を眺めながら、ふとそんなことを思った。

 ついでに触れておけば、逆に、藤田のあの有名な「アッツ島玉砕」を、あまりにも凄惨な戦場をリアルに描いているが故に、反戦画ででもあるかのように再評価する向きもあるらしい。この絵のコメントには、「1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島で、日本陸軍守備隊がアメリカ軍との戦闘により全滅しました。同年4月の、海軍連合艦隊司令長官・山本五十六のブーゲンビル島での戦死の知らせと続けて報道されたこともあり、日本国民に大きな衝撃を与えました。部隊の全滅は『玉砕』という言葉により美化され、歌や文学や絵本などさまざまなメディアに取り上げられて、『仇討ち』の国民感情を醸成しました。 藤田嗣治の作品『アッツ島玉砕』もその文脈の中で生み出されたのです」と書かれていた。きっとそうなのであろう。「狂気」の時代の文脈の中に位置付けてみなければ、その意味は解けないということか。「狂気」の時代に「正気」でいることの難しさは、戦前に回帰するかのような現代にも、相通ずる問題なのではあるまいか。