盛暑の岩手・青森紀行(一)ー民話のふるさと遠野へー
先月8月の6日から9日にかけて、人文科学研究所の調査旅行に参加させてもらい、岩手と青森を廻ってきた。暑い最中の3泊4日の旅となった。泊まったのは盛岡、八戸、むつである。東北に出掛けるのだから、いくらなんでも東京よりは涼しかろうと思ったが、今年は東北や北海道も大分暑かったようだ。そんなわけだから、半袖のシャツ一枚で快適に過ごすことができた。
この調査旅行の概要に関しては、既にブログで4回に渡って紹介済みである。事情があって4回とも短い文章にせざるをえなかったので、書き足りないところが多々あった。そこで、今回あらためてパンフレットなどの資料類や関連する著作に目を通したうえで、「盛暑の岩手・青森紀行」と題して5回に渡って書き加えてみることにした。いつもであれば旅程をたどるような形で旅日記を綴るのだが、今回は少し趣向を凝らして、調査旅行で出会った人物に焦点を当てて書き進めてみることにした。
出会ったとは言っても、すべて歴史上のつまり既に亡くなった人物ばかりである。そんなことを思い付いたのは、ちくま日本文学全集全50巻のなかに、柳田國男(1875~1962)、石川啄木(1886~1912)、宮沢賢治(1896~1933)、寺山修司(1935~1983)の4人が顔を出していたからである。一人一冊の文学全集にこの4人が顔を揃えているのは、珍しいのではないか。安野光雅の装幀で、大きさは文庫本サイズである。
他にも理由がある。調査旅行に連れて行ってもらった人間が、のっけからこんなことを書くのはどうかという気もしたが、柳田の民話にも賢治の童話にも今ひとつ身が入らなかったからである。同じようなことは今年の春に出掛けた山陰でも経験した。小泉八雲の怪談にも水木しげるの妖怪にも醒めていたからである。もともと情緒に欠けた人間であり、創造力だけではなく想像力も貧困だからなのか。それとも、社会科学を学べば世の中のことはあらかた分かるなどと、思い上がっていたからなのか。当の本人にも判然としない。
出発前に人文研から送られてきた栞には、今回の調査旅行は「北東北総合研究調査」と書かれていた。北東北とは聞き慣れない表現である。調べてみれば、東北6県のうち青森、岩手、秋田が北東北であり、宮城、山形、福島が南東北だとのこと。私が生まれたのは埼玉の深谷だが、生まれて程なく福島に転居したので、育ったのは福島である。長らく福島にいたのだが、南東北という言葉を聞いた覚えがない。それ故北東北も知らなかった。東北6県ではあまりにもエリアが広すぎるので、北と南に分けたということなのか。旅の途中で、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が2021年に世界文化遺産に登録されていることを知った。ここには北東北という言葉が使用されているから、北東北という言葉を知らなかったのは、もしかしたら私だけだったのかもしれない。
調査旅行の参加メンバーは東北新幹線の新花巻駅に集合することになっていたので、8時近くに全席指定のはやぶさ103号に乗り込んだ。はやぶさと称するだけあってやけに速い。大宮の次の停車駅は仙台であり、故郷の福島にも停車しない。あっという間に福島を通過した。座席の前には『トランヴェール』と題した冊子が置いてあった。JR東日本が発行している旅の宣伝誌である。今回手にしたのはその8月号であったが、それが「いわて怪異探訪」と題した特集号であった。今回の調査旅行の目的と重なり合うような特集であったから、いつも以上に熱心に読んだ。
そこには次のようなことが書かれていた。「岩手の夏は、どこかひんやりとした空気が漂っている。山里の草木がいっそう茂り、不穏な気配が増すからだ。民話の里として知られる遠野には、河童やザシキワラシだけでなく、知られざる怪異が潜む。この世の不穏なるものを、しなやかに受け止める里だ」。ついつい引き込まれてしまうような達意の文章である。取材と文は吉田朗と書かれていた。無名の人なのか。そう言えば、しばらく前まで岩手は「日本のチベット」と呼ばれていた。広大な北上山地が広がり、開発の遅れた僻地だったからであろう。
余談であるが、この『トランヴェール』には、ミステリー作家として著名な柚月裕子がエッセイを書いていた。映画で観た『孤狼の血』の原作者である。せっかくだからと読んでみたが、あまりにもつまらない文章なので驚いた。流行作家だから忙しいのであろう。続いてページをめくると、「ふしぎのくに遠野を彷徨う」と題して、次のような吉田の文章が続く。
遠野に伝わる「怪異」の例は少なくない。なぜ、多くの怪異譚が伝承されているのだろう。遠野と怪異の関わりなどを研究してきた遠野市立博物館館長の長谷川浩さんは言う。「遠野三山(早池峰(はやちね)山、六角牛(ろっこうし)、 石上(いしかみ)山)と呼ばれる霊山に囲まれ、 そこで修行する修験者(しゅげんじゃ、山伏とも呼ばれる)など、各地から集まった宗教者によって、不思議な話がもたらされたのでしょう」。
また、江戸時代には沿岸と内陸の城下町である盛岡や花巻を結ぶルートの中間にあり、人の往来が盛んだった。「農村部から市場に買い付けに来ると、まだ見ぬ海や都市の話を他所から来た人たちから耳にする。あるいはは修験者から不思議な話などを開いて里に持ち帰る。それを各集落で村人たちが開き、また誰かに話す、というふうに伝わってきたのだと考えられます」(長谷川さん)。 どうやら、遠野の風土が怪異の源泉のようだ。
この地に伝わる物語に詳しい遠野市文化課副主幹の前川さおりさんが、遠野の里を見渡せる高清水展望台に連れて行ってくれた。山に囲まれ、海と内陸を結ぶ道が東西に走り、盆地をくまなく潤すように川が何本も流れている。街は開け、山麓の農村部には美しい田園風景が残る。「春から秋は人の往来が多いけれど、雪が降ると盆地の外とは遮断され、遠野だけの閉ざされた時間ができる。そのとき囲炉裏端に集まり、 伝え聞いた話を繰り返し語り合った。そうして、物語が熟成されてきたのです」と、前川さんは言う。
こんな紹介文を読むと、遠野がどんなところだったのかおぼろげながら分かってくる。今でこそ、遠野は民話のふるさとや日本の原風景を残した場所としての印象が強く、それが人気の源となって観光客を集めているのだが、江戸時代から明治にかけては北上山地でもっとも繁栄した街だったようだ。駄賃付けの馬の往来で賑わったという。馬で荷物を運ぶ際の運賃を駄賃と言うが、駄賃付けとは村の物を町に運んだり町の物を村に運んだりして報酬を得ることである。調査旅行の初日に出向いた伝承園でそんなことを知って驚いた。『遠野物語』に登場するザシキワラシやカッパやオシラサマの物語も悪くはないが、そうしたものにさほど興味が沸かなかった私は、民話そのものではなく、それらを数多く伝えていた往時の遠野の様子の方に関心が向かいがちだった。
寂れた田舎町であれば東北には至る所にある。しかしながら、そうしたところに多くの民話が伝わっているわけではない。話は逆であった。繁栄した遠野だったからこそ、数多くの民話が集まり伝わり残ったのである。江戸時代には遠野は盛岡とならぶ城下町だったのだから、商業活動はきわめて活発で盛岡を上回っていたともいう。今となっては、往時の繁栄や賑わいはすっかり喪われているが、遠野の地は商業と交通の要衝だったのである。夢幻の如くである。
それはともかく、繁栄した町には様々な人々が集まってくる。修験道に励む僧や山伏だけではない。商人、猟師、旅芸人(浄瑠璃祭文語り、竹からくり、猿まわしなど)なども集まってきたために、各地の産物は勿論のこと、信仰、伝承、民話、歌謡、舞踏などが伝わったようだ。そんなわけで、当時の遠野は「文化の十字路であり溜まり場」だったというのである。土淵村に昔話が豊かなのは、村が様々な人々が歩く街道筋に位置しており、彼らの宿泊地となっていたからである。上記のような話が、伊丹政太郞の『遠野のわらべ唄』(岩波書店、1992年)のあとがきに登場している。
遠野に集まってきた人々が旅の珍しい話を村人に語って聴かせたが、その話を記憶に留めていた人びとの中から「ひょーはぐきり」と呼ばれるような人が出たらしい。「ひょーはぐきり」とは、とっておきの話し手、切り札の話者という意味だそうで、幽霊話、怪異譚、世間話、昔話、伝説、猥談などあらゆる話を面白おかしくしゃべり、聞き手を喜ばせる話の名人のことである。猥談まで登場していたのが何とも笑える。艶笑譚と言うべきかも。残念ながら、『遠野物語』には猥談と言えるような類いの話は収録されていない。
先のような事情もあって、土淵村にはこの「ひょーはぐきり」と呼ばれる人物が特に数多くいたのだという。柳田國男に遠野の民話を語って聞かせた佐々木喜善は、この土淵村の出身者である。先に触れたことからも分かるように、喜善が話したのは、正確に言えば遠野に生まれた民話というよりも遠野に伝わる民話ということであろうか。