浅春の山陰紀行(六)-松江にて(下)-
今回は松江の話の続きである。人々は松江のどんなところに惹かれるのであろうか。その辺りのことに関して書いてみたい。水の都松江の魅力を世に知らしめた人物の一人として、「日本に恋した」とまで評されている小泉八雲をあげても間違いはあるまい。八雲が出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に由来することは、よく知られていることだろう。彼は外国から来てさほど経たないうちに、松江の魅力を余すところなくしかも美しい文章で描き出しており、そのことが人々を驚嘆させたようである。
私はこれまで八雲の作品を一度も手にしたことはなかった。特に理由と言えるようなものは何もない。食わず嫌いの類であろう。読書家というわけでもないし、不勉強な人間なのだからたまたまと言えばたまたま(あるいは、当然と言えば当然)なのだが、もしかしたら、『知られぬ日本の面影』と並んで彼の主著として名高い『怪談』を、文学作品としてはどこか軽んじていた所為もあったのかもしれない。
今回の調査旅行で2日目に堀川巡りをしたことも、その後堀端にある八雲の記念館と旧居を訪ね詳しい説明を受けたことも先に触れた。そんなこともあった所為か、せっかくだからこの機会に少しは彼の作品を読んでみようなどという気になった。なかなか殊勝ではないか。今回手にしたのは、『知られぬ日本の面影』の翻訳アンソロジーとも言うべき『新編 日本の面影』(角川文庫、2000年)である。当時の松江の様子を描いているのは、そのなかに収録された「神々の国の首都」と題した一文。少し長くはなるが、その美しい文章の一端を紹介してみる。
町の暮らしの始まりを告げる早朝の物音に起こされて、私は障子の窓を開け放つ。そしてまず、川沿いの庭に芽吹き始めた柔らかな新緑の茂みの向こうに、朝の様子を眺めわたすのである。眼下に流れる大橋川の幅広い鏡のような水面が、すべてをうつろに映し出し、きらきらと光っている。その水面は宍道湖へと注ぎこみ、灰色に霞(かす)む山々の縁(ふち)まで、右手方向に大きく広がっている。 川向こうでは、尖(とが)った青い屋根の家々がどこも戸を閉め切っていて、まるでふたを閉じた箱のように見える。夜は明けたが、まだ日は昇っていない。
ああ、なんと心惹(ひ)かれる眺めであろうか。眠りそのもののような靄(もや)を染めている、朝一番の淡く艶やかな色合いが、今、目にしている霞(かすみ)の中へ溶けこんでゆく。はるか湖の縁まで長く伸びている、ほんのり色づいた雲のような長い霞の帯。それはまるで、日本の古い絵巻物から抜け出てきたかのようである。この実物を見たことがなければ、あの絵巻物の風景は、画家が気まぐれで描いただけだと思うにちがいない。
山の麓という麓が霞に覆われている。その霞の帯は、果てしなく続く薄い織物のように、それぞれ高さの違う頂を横切るように広がっている。その様子を日本語では、霞が「棚引く」と表現している。そのために、湖は実際よりずっと大きく見える。いや、現実の湖というより、むしろ暁の空の色が溶けこんだ美しい幻の海に見まがいそうである。その靄の中から、いくつもの山の尖頂(せんちょう)が島のように浮かび上がり、山並みの稜線は土手道のように延々と続き、はるか彼方へと消えてゆく。その風景は、薄靄がゆっくりゆっくりと立ち上るにつれて、たえず違う顔を見せ続ける、えも言われぬ美しい混沌の世界である。
やがて太陽が、その黄金色の縁をのぞかせる。すると、淡い紫やオパール色などの暖かい色調の細い光線が、水面に射しこみ、木々の梢は火が灯ったように赤く染まる。 川向こうの高い木造の建物の正面は、美しい霞を通して、しっとりとした黄金色に変わる。
いささか美文調の表現も散見されるのではあるが、紀行作家らしい鋭い観察眼で、色彩感覚に富んだ何とも美しい文章が綴られている。八雲がこんな文章を書く人物だとはこれまでまったく知らなかった。この私も、八雲に倣って朝焼けの美しい景色を目にしようと、朝食後湖畔に出てみた。朝日が湖面に反射し、その橙色の光が橋と建物を何とも美しく照らし出していた。確かにうっとりするような眺めである。その後街中を気儘に散策していたら、たまたま皆美館(みなみかん)の前の通りに出た。ここは1888(明治21)年創業の由緒ある老舗の旅館であり、多くの文人・墨客に愛されたことでも知られている。
私が松江の皆美館のことを知ったのは、先に出雲のところで引いた田宮虎彦の『日本散策』に紹介されていたからである。田宮は、「松江に住んで余生を送ろう」とまで考えたほど松江を愛したようだ。彼のファンを自称している私は、そんなわけで松江に憧れのような気持ちを抱くことになった。何ともミーハーではある。そしてまた彼は、皆美館を松江行の際の定宿にしていたようで、そこでのもてなしと料理の素晴らしさを褒め称えていた。そんなわけだから、皆美館には彼の色紙ぐらいは飾ってあるかもしれないと思い、今回是非とも出掛けて直接目にしてみたかった。しかしながら、日中は勿論のこと夜もなかなか自由な時間が取れず半ば諦めかけていた。その皆美館を、朝の散歩でたまたま見つけたというわけである。
朝早くではあったが、この機会を逃すわけにはいかないと思い、宿泊客でもないのに旅館の中に入り込んだ。フロント前のコーナーには多くの著名人の色紙が飾られていた。一枚一枚丁寧に見回したのだが、そこに田宮の色紙はなかった。もう今では知る人も少なくなった過去の作家だからなのかもしれない。コーナーの隅には宿泊した著名人のリストが置かれており、そこに彼の名が小さく載っていただけだった。
植田正治(うえだ・しょうじ)のモノクロームの写真と漢東種一郎(かんとう・たねいちろう)の文で編まれた『松江』と題する写文集がある。その知名度から言えば、植田の写真集と言ってもいいのかもしれないが、松江の四季折々を綴った漢東の文章もなかなか味わい深い。そのため、写真集ではなく写文集と表記してみた。植田については後に改めて触れることにして、漢東種一郎の方だが、彼は松江市役所に長年勤務し退職後文筆業に転じた人である。山陰地方に関する数多くの著作がある。
この写文集を出版したのは山陰放送であり初版は1978年だが、山陰放送開局60周年を記念して2014年に復刻されている。私が入手したのは復刻版の方だが、立派なケースに収められており、実にしっかりした作りである。こうした写文集が作られ復刻までされたこと自体が、松江の魅力を問わず語りに物語っているのではあるまいか。その巻頭に田宮は「松江」という一文を寄稿している。八雲が、「一度聞いたら忘れることができない」と書いた大橋川を渡る人々の下駄の音のことを振り返りつつ、その音にこと寄せて次のように書いている。
私は、時々、ふっと松江へ行ってみたいと思う。私がはじめて松江をたずねたのは昭和三十六年であったが、それ以前、幾度も松江をたずねている。一年の間に三、四度もたずねたことさえあったと思う。松江の方たちのお叱りを受けるかもしれないが、私の心の中には、たずねて行くというよりも、帰って行くと言った気持の方がはるかに強いのである。何時の間にか、私には、松江が心のふるさとになってしまっていると言っていいかもしれない。
しかし、それは私だけのことであろうか。一度松江をたずねたことのある人には、私と同じような思いをいだいている人は多いのではないか。大橋を渡る人の下駄の音を、小泉八雲は静かなよろこびを心に感じながら聞いているが、その八雲と同じ静かなよろこびを、一度でも松江をたずねた人は心の奥深い底に何時までも感じつづけているように私は思う。明治二十三、四年の頃、八雲が聞いた下駄の音は、もちろん今は聞えない。松江はすっかり変ってしまっているのだが、松江をたずねたいと私が思う時、八雲が聞いたに違いない下駄の音が私の耳に聞えて来るように思われるのである。