早春の調査旅行へ(下)

 人文科学研究所の調査旅行で注目したのは、2日目の午後に訪ねる満蒙開拓平和記念館と馬籠宿である。この二カ所、とりわけ満蒙開拓平和記念館は今回の調査旅行で私が最も関心を寄せているところである。この記念館は、飯田市からさらに南西に向かった阿智(あち)村の駒場にある。そして、かなり長そうな恵那山(えなさん)トンネルを通れば岐阜県に入り、出口の近くに馬籠宿はある。木曽路の入口に位置する宿である。

 まずは記念館である。満蒙開拓に関してはほとんど何も知らなかったので、その全貌を知るために手頃な本を何冊か購入した。例えば、飯田市歴史研究所編『満州移民 飯田下伊那からのメッセージ』(現代資料出版、2007年)、二松啓紀『移民たちの「満州」 満蒙開拓団の虚と実』(平凡社新書、2015年)、平井美帆『ソ連兵に差し出された娘たち』(集英社、2022年)、加藤聖文『満蒙開拓団 国策の虜囚』(岩波現代文庫、2023年)、平井和子『占領下の女性たち 日本と満州の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店、2023年)、松原文枝『刻印 満蒙開拓団、黒川村の女性たち』(KADOKAWA,2025年)などである。そしてまた、前回触れておいたように、できたら研究所の『月報』に何かを書かせてもらいたいと思っているので、記念館のホームページを眺めて事前に購入可能な資料はすべて取り寄せておいた。大した値段ではない。

 届いたのは、60ページにも及ぶなかなか立派な資料集を初めとしたいくつかの印刷物である。資料集は写真や図版や資料も豊富で、なかなか読み応えがある。この資料館の館長は寺沢秀文(てらさわ・ひでふみ)さんである。この資料集には、寺沢さんの文章が3つ掲載されている。冒頭の挨拶文と、記念館の設立の経緯を記した「平和発信の拠点をめざして」と、末尾の「『満蒙開拓』の史実から学ぶもの」である。最後の文章は、比較的長い。いずれの文章も読み応えがあり、この記念館にかける館長としての寺沢さんの思いが溢れるようであった。

 注目すべきは、この記念館が満蒙開拓記念館ではなく、満蒙開拓「平和」記念館と銘打たれていることであろう。まず冒頭の挨拶文である。以下のようなことが記されていた。「当記念館は『満蒙開拓』の史実を風化させることなく後世に伝える拠点として2013(平成25)年4月に開館しました。(中略)先の戦争から遠く離れつつある中で、かつての戦争の記憶も年々風化されつつあります。しかし、平和を守っていくための積み重ねの大切さはいつの時代でも変わりません。戦争とも密接な関連を以て進められた満蒙開拓の史実には未来の平和に向けての多くの教訓を含み、 そのことを学ぶことの重要性は今の時代であるからこそ大きなものがあります」。

 そして次のように続く。「当時、国策の下に実施された満蒙開拓。開拓団員として渡満した人々も『20町歩の地主になれる』、『満蒙は日本の生命線』の謳い文句の下、夢を抱いて渡った新天地『満州』でした。しかし、1945(昭和20)年8月9日、突然のソ連侵攻で戦場と化し、開拓団の人々は広野を逃げ惑い、難民収容所でも飢え、寒さ、流行病等で多くの犠牲者を出しました。また、帰還が叶わず、残留孤児・婦人となった人たちも少なくありません。しかし、満蒙開拓においてはこれら日本人側の『被害』 だけでなく、現地の人々に対する『加害』の面もあったということも決して忘れてはならないことです。日中双方等に多くの犠牲を生んだ『満蒙開拓』とはいったい何であったのか。戦争へと導かれていく道筋を辿り、人々の体験と記憶とに耳を傾け、皆様と共に考えていきたいと思います」。

 挨拶文の冒頭には、「前事不忘、後事之師」(ぜんじふぼう、こうじのし)という中国の故事成語が記されていた。『論語』に由来するらしい。過去の出来事を忘れないことが、未来の行動の教訓や手本となるといった意味だが、私はその言葉を資料集を広げていて今回初めて知った。では何故、阿智村に満蒙開拓平和記念館ができたのだろうか。そしてまた、記念館の設立にはどんな思いが込められていたのであろうか。それを知るためには設立の経緯を振り返らなければならない。「平和発信の拠点をめざして」と題された全文を紹介してみる。

 かつて日中双方含め多くの犠牲を出した旧満州、そこに全国各地から約27万人の満蒙開拓団が「開拓移民」 として送り込まれた。その史実は、二度と同じ過ちを繰り返さないために学ぶことの多い重要にして身近な現代史でありながら、送り出した側、また送り出された側にとっても「不都合な史実」であったことなどを背景として、余り積極的に語り継いでこられなかったテーマであった。

 全国で最も多くの開拓団を送り出した長野県南部の飯田・下伊那地方では、それが故に戦後多くの中国残留邦人の帰国者を迎える中で、地域行政と共に飯田日中友好協会、日中友好手をつなぐ会等の民間団体が共同して帰国支援活動を続けてきた。それらの活動を通じて、満豪開拓送出の背景、実態やこれにまつわる様々な事実が明らかになる中で、満蒙開拓の史実を語り継ぐことの重要性、そしてその拠点となる満蒙開拓平和記念館の建設の必要性が確認されるところとなった。国策であった満豪開拓であるも、これに関わる記念館等の建設着手は行政主体では当初は困難とのことであったため、「まずは民間から」と飯田日中友好協会が中核団体となり、「全国で最も多くの開拓団を送出したこの地域にこそ全国で唯一の満蒙開拓平和記念館を建てよう」と2006(平成6)年から建設事業に取り組み始めたものである(中略)。

 当記念館は、全国で唯一の満蒙開拓に特化した記念館であるも、決して旧満州や満蒙開拓等を美化したり正当化しようとするものでは無く、満蒙開拓の史実を通じて戦争の悲惨さ、平和の尊さを世界に向けて訴え、平和発信の拠点、国際理解・協調の拠点としていくことを目的としている。勿論、開拓団員たちの苦難、 涙、思いを語り継ぐも、「開拓」の名前での渡満でありながら、その多くは現地の人々の土地や家を収奪しての侵略の加担でもあったという「満蒙開拓の被害と加害」の両側面をきちんと取り上げていくことを基本的スタンスとしている。また、国、軍部の思惑による国策として進められ、そしてそのことを結果として国民の多くも支持したという歴史を学び直すことにより、国民自身もまた賢くならなくてはならないという、過去からの教訓を学ぶ場とすることを目的としている。そして、満蒙開拓という難解なテーマを市民の目でとらえ分かり易く伝えるという民間運営施設としての特色を活かし、「小さくともキラリと光る記念館」 を目指していくことを活動指針としているところである。

 この私は、日本の社会の至る所に見られる病弊として、いたずらな熱狂、やみくもな精神主義、たちどころの忘却、そして基準なき状況追随を上げたいと思っているのだが、そんな私からすると、この記念館の設立は、先のような社会の病弊に深くメスを入れる試みのようにも思われた。「不都合な史実」に向き合おうとする真摯な姿勢は、送ってもらった『証言 それぞれの記憶』と題された開拓団の当事者自身による体験談が冊子に纏められていることにも現れている。満蒙開拓のあまりにも悲劇的な顛末を知るにつけ、私自身もこの機会に満蒙開拓とはいったい何だったのかを改めて問うてみたくなった。調査旅行から戻ったらブログに連載してみるつもりである。

 最後に触れるのは馬籠(まごめ)宿である。ここは、中山道69次の43番目の宿場で、木曽11宿の一番南に位置する宿場町である。現在は岐阜県の中津川市に編入されている。明治と大正の二度の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失したようだが、その後復元され現在の姿となった。そうした経緯があるものだから、隣の宿場町である妻籠(つまご)宿(木曽郡南木曽町)は重要伝統的建造物群保存地区に指定されているが、馬籠宿は指定されていない。

 ここは、石畳の敷かれた坂道に沿う宿場として、そしてまた近代を代表する作家の一人である島崎藤村の生家がある場所としてよく知られている。馬籠峠を越えた長野県側の妻籠宿とともに人気があり、多くの観光客が訪れる場所のようだ。石畳の両側には土産物屋がならび、商いをしていない一般の家でも当時の屋号を表札のほかにかけるなど、史蹟の保全と現在の生活とを共存させているとのこと。観光資源としての宿を大事にしているのであろう。ここも写真撮影にはもってこいの所なのかもしれない。

 馬籠宿のほぼ中間地点にある旧本陣跡に、藤村記念館(島崎藤村の生家跡)がある。馬籠という地名の由来は諸説あるようだが、馬を囲い込むような狭い谷間という説が有力なようだ。藤村の代表作の一つである『夜明け前』の冒頭には、「木曽路はすべて山の中である」とあって、この有名な一文はあちこちで引かれている。そこに続くのは、「あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」と書かれている。

 しばらく読み進めると、馬籠宿に関する描写も現れる。そこにはこんなふうに書かれていた。「馬篭は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える」。昔の面影はどのように現在どのような形で息付いているのであろうか。

 3回に渡って、これから出掛ける二つの調査旅行の案内のようなものを書いてきた。学校用語で言えば、事前学習とか下調べ とでもなろうか。こうしておけば、現地に赴いた際に見忘れることも少なくなるだろう。しかしながら、今度は逆に現地での新鮮な感動が少なくなる恐れもあるかもしれない。さて、どちらになるのか。しかしまあ、そんなことを心配するよりも、転んだり忘れ物をしたり迷子にならないように気を付けることの方が、ずっと肝要である。わざわざこう書いて自分を戒めているのであるが…。