北東北の旅へ(完)
この間「北東北の旅へ」と題して3回に渡って文章を綴ってきた。毎週書くという初心を忘れまいとし、それを優先させたこともあって、アップした文章は3回とも短くて簡単なものにせざるをえなかった。急場しのぎとなってしまったのだから、それはそれでやむを得なかろう。だから、上記の文章はいつも書いているような紀行文とは大分趣が違っている。いささかとりとめもない書きっぷりである。これを読んだ家人は、「短いのも読みやすくていい」と言ってはくれたのだが…。いつも書いてきたような紀行文は、来月に入ってから関連の書籍や資料を読みながら、落ち着いてのんびりと綴ってみるつもりである。
これまでに3回書いただけだが、それでもあれこれと書き足したくなることは生まれてくる。生前ほとんど無名に近かった賢治は、いったいいつ頃どのようにして国民的詩人となったのか、その際、手帳に書き留められた「雨ニモ負ケズ」は、どんな役割を果たしたのか、啄木は、『ローマ字日記』に「我を育て、そして迫害した渋民」と書いたが、その迫害とはどんなものだったのか、喜善は故郷の遠野に帰って、どのような晩年を過ごしたのか、とりわけ柳田国男の名声をどんな思いで眺めていたのか、植民地化されたばかりの台湾に向かった嘉矩は、そこで何をやろうとしていたのか、竣介は状況に身を委ねたり逃げたりせずにただ立ち続けたのだが(屹立という表現の方がぴったりなのかもしれない)、そうした行為の意味とはどんなものだったのか、時代を切り裂き、挑発し、牽引した修司に、若かりし頃の私は傾倒することがなかったが、それはなぜだったのか、そんな問いが思い浮かんだ。
忘れないようについでにメモしておけば、映画化もされた『おらおらでひとりいぐも』で芥川賞を受賞した若竹千佐子さんは、遠野在住の作家であり、このタイトルは賢治の「永訣の朝」から取られていること、そして高校の国語の教科書に掲載されていたこの詩が、当時の私に強いインパクトを与えたこと(とりわけ印象深かったのは、何度も繰り返される「あめゆじゆとてちてけんじゃ」である)、中学校の同級生だった菊池さんは、義理の母親の世話のためによく遠野に出掛けていたようだが、その母親は、『遠野のわらべ唄』に登場する菊池カメと同一人物だったのかどうか、といったことなどである。
今回の調査旅行では、他にも様々なところを巡った。その場所だけ列記しておけば、盛岡城址公園、岩手銀行赤レンガ館、蕪島(かぶしま)神社、盛岡市先人記念館、十和田現代美術館、野辺地(のへち)町歴史民俗資料館、常夜燈公園と北前船みちのく丸、そして恐山などである。
そして最後に触れておかなければならないことは、今回の調査旅行の最終日に斗南藩庁跡や斗南藩史跡地、斗南藩士上陸地を巡ったことである。大湊駅の側にあったホテルからさほど離れていないところに、上記のような場所が点在していた。戊辰戦争で敗れた会津藩の藩士は、最果ての地であった下北の痩せた原野にまで追いやられるのである。言わば流刑のようなものであったろう。福島出身の私としては、左記のような場所を巡りつつ深い悲しみに襲われたのだが、そんなこともあれこれ調べたうえでそのうち文章にしてみたいと思った。
いつものことではあるのだが、人文科学研究所の調査旅行は相変わらず盛りだくさんである。全部真面目に付き合うと年寄りの私には負担が大きすぎるので、今回も適当にカットさせてもらった。そして、その分写真をたくさん撮った。夏の北東北は旅情に溢れており、様々なところで写真心がいたくくすぐられたからである。