「浅春の山陰紀行」付記

 昨日久方ぶりにジムのプールで泳いできた。いつもはマシンを使って体を動かしているのだが、あれこれと面倒なことが続いたので、プールで身体を思い切り伸ばしたくなった。気鬱を晴らすとでも言えばいいのか。梅雨に入りじめじめと汗ばむ季節になったので、水のひんやりした肌触りが恋しくなったこともあったかもしれない。プールでは水泳教室が開かれており、トレーニングコーチの声がやたらにうるさかったが、水に潜ってしまえば一人っきりの世界となり、音は何も聞こえない。水着になって静寂ななかに身を置くのも悪くはない。

 ブログに書いた「浅春の山陰紀行」をもとに、紀行文のようなものをまとめてみた。今回の調査旅行を企画した人文科学研究所の『月報』に、掲載してもらおうと考えていたからである。その際に、「付記」という形で新たに文章を付け加えた。『月報』が出来上がれば、付け加えた文章がどんなものか分かるわけだが、こうしたアカデミックな印刷物の流通範囲は極めて狭いので、ブログの読者はその内容を知ることはできない。そこで、「付記」のうち面白そうなものだけでもブログに紹介しておくことにした。

 「付記」は1から6まであるが、主に引用文からなる4から6を紹介してみる。言うまでもなく紀行文に彩りを添えるために書き足したわけだが、それを読むと、私がどんなところに関心を寄せているのか、また私がどんな文章を気に入っているのか、そんなことも自ずと分かるはずである。そんなことを知ってどうするのかと言われそうな気もするが、自分にとっては感受性や美意識の在処を示すものでもあるので、やはり大事なのである。

(付記-3)
 島根県には七つの日本遺産があるが、そのうちの一つが「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」である。その背景を記した記事を探して読んでいたら、次のようなことが記されていた。これを読むと、単純に夕陽の美しさが愛でられていたわけではないことがよくわかる。どんなことが書かれていたのか紹介してみよう。
 
 古代、政権の中心であった大和から見ると、太陽は北西の出雲に沈みます。このことから  出雲は「日が沈む海の彼方の異界につながる地」として認識されたと考えられます。中央で編まれた『古事記』や『日本書紀』で、出雲が「黄泉国(よみのくに)」と「地上世界」をつなぐ地として描かれているのは、古代の人々が出雲を「日が沈む地」とイメージしていたことに端を発するのかもしれません。今日も出雲では夕暮れ時の挨拶として「ばんじまして」という方言が使われています。他 の地域ではあまり耳にしない「こんにちは」と「こんばんは」の間を結ぶ挨拶で、夕刻に格別な思いを抱く出雲の人々の心情が垣間見えます。穏やかな表情や荒々しい姿を見せる海岸線。それを舞台に圧倒的な存在感を示す夕日。両者が織りなす美しい夕景は神により創り出されたとこの地に生きた人々は感じてきたことでしょう。出雲の海岸線に立って海に沈む美しい夕日に祈り、出雲神話にちなんだ神社や登場地を巡ると、日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を体感することができます。

 先に紹介した『八雲立つ出雲』で、上田正昭は古代の出雲人にとっての海辺を次のように位置付けている。彼らは、海よりきたり、海へ去ってゆく神の姿を見ていたのであろうか。そんな思いで稲佐の浜に佇んだならば、もう少し違った感慨が生じたのかもしれない。「去来する神々」と題した一文である。

 神々が他の地より来臨して、人々のくらしを守り、なりわいを助けるという信仰は、古代人のこころに生きていた。それらの神は、あるいは海原より、あるいは天上よりおとずれてくる。『古事記』の神話において、オオクニヌシノカミが、くにづくりをしようとするときに、波の穂にのって、スクナヒコナノカミがやってくるありさまが、ほのぼのと描かれているが、これなどは、その好例といってよい。海よりきたり、海へ去ってゆく神の姿が、出雲神話にはっきりと物語られているのは、大いに注目すべき点である。そのような信仰は、古代出雲人の世界にいきづいていたものであるからだ。この世にたいするあの世は、ふつう死後のくにとして認識され、夜見(黄泉)のくにとよばれていた。出雲では、その夜見のくににいたる入り口は、海辺に求められている。神がおとずれるところも海辺なら、人が死んでおもむくところも海辺である。それは海より神がおとずれ、また神が海へ去ってゆくとする古代出雲人の信仰にふさわしい。

 (付記-4)
 先に紹介した写文集『松江』には、味のある文章がたくさん出てくる。紹介し出すと切りがなくなりそうなので、ここでは「湖のある町」と題した一文のみ取り上げてみる。松江が水の都であることがよく分かる。

 眼の高さに、いつもみどりの水がある。雲がある。そして、その水と雲とのあいだに、そり(剃刀)をあてた年増(としま)の眉の色のような碧(あお)い山並が低く、細く延びている。雲と山とが絶えずひかりを交わし、たしかめあい、そしてひとつの色に溶(と)けあって水に映っている。 このみずうみの名は、宍道湖(しんじこ)―松江は、この宍道湖をふところ深く抱いている町なのだ。だから、湖畔に立つと、まだ正午近い真昼間だというのに、町中のもの音は、すべて水にひびいて聞える。バスの音も、めのは(若布、わかめの別名)売りの行商の声も、また台所で惣菜をきざむ 庖丁の音も、道端で世間ばなしにふける老婆の出雲弁も、松江の暮しというくらしの音は、ときおりふなばたをたたくシジミ掻きの竿のにぶい音にまじって、手にとるように聞える。「山陰というから、どんなに暗い陰うつな影のある町かと思ったら、案に相違して、なんと明るいー」はじめて訪れる人は、口をそろえて、 こうつぶやく。旅行者の口からこんなことばを聞くと、ここに住む人たちは、まるでわがこ(娘)の器量をほめられた親のように、相好(そうごう)をくずしてよろこぶ。

 (付記-5)
 横山大観の話から画家の戦争責任へと関心が広がった。先に紹介した北村小夜『画家たちの戦争責任』には、「見のがせない間接的な戦争画」という見出しで、大観に関してさらに詳しく次のようなことが書かれていた。たいへん興味深い指摘なので、ここであらためて紹介しておきたい。

 朝日や富士などを描いて国民の愛国心を煽動する間接的な戦争画についてふれなければならない。それは日本画家の得意とする所であった。その代表的な存在が横山大観である。横山大観は戦前から国策に沿っていた。1935、1936年の帝展改組の舞台裏の大立者である。皇紀2600年にあたる1940年に「海に因む十題」を発表し、その売り上げで陸海軍省にそれぞれ2機の飛行機を献納している。それぞれの飛行機は「大観号」と名付けられた。1941年には、藤田の「戦争画制作の要点-1944年9月」に匹敵する、画壇の国家統制・指導の強化を力説した意見書「日本美術新体制の提案」を書いている。このような殉国の美挙により1943年には「日本美術報国会」の会長に推されている。
 大観の描いた(ものは-引用者注)「間接的戦争画」といわれ、作品の中に登場する「朝日・富士・桜」などはしばしば国威の象徴として使われ、軍歌にもよく登場した。写実的な「戦争画」よりはるかに国民の神国観念醸成には効果があった。にもかかわらず、戦後にあっても藤田のように糾弾されることもなく、画壇における地位も揺るがず描き続けた。最近(2018年6・7月)も大回顧展が東京国立近代美術館に続いて京都でも開かれ、大変な盛況であったという。戦前は続いているのである。江田島海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校跡)には1942年に描かれた「生気放光」が所蔵されている。皇居三の丸尚蔵館は、紀元2600年奉祝記念展に出品した「日出処日本」(ひいづるところにほん)や「櫂」(大八洲)など多数を所蔵・展示している。

 ついでのついでに、司修(つかさ・おさむ)の『戦争と美術』(岩波新書、1992年)にまで手を伸ばしてみた。内扉には、「第二次大戦中、戦争画を描いた多くの有名画家たちがいた。また時局にささやかな抵抗を試み、描くことを拒否した画家たちもいた。著者は、彼らの根底に潜む人間の弱さを凝視しつつ、自らが画家であることを深く意識しながら、当時の画家の戦争責任を考える。 藤田嗣治と松本竣介の二人を焦点にすえ、時代と向き合う芸術家の生き方を鋭く問う」とあった。知らなかったことがたくさん書かれており、実に興味深き読んだ。「あとがきにかえて」まで読んだら、最後に「長い間、崩折れそうになる僕を豪快な酒と笑いで助けてくれた『へるめす』編集部以来の新書編集者川上隆志さんに感謝いたします」とあった。何だか少し笑えた。

 (付記-6)
 われわれは、美保関から志賀直哉が言う「輪郭に張切った強い線を持つ」美しい大山を眺めたのだが、彼の『暗夜行路』では、主人公が逆に大山から大根島や美保関を眺めた光景が描かれている。文芸評論家の荒正人は、新潮文庫の解説で次のようなことを書いている。「謙作は山頂で、次第に明けてゆく下界の風景を前にして、つぎのような深い感動を受けたのであった。この箇所は、志賀直哉の文学のなか、自然と人間の緊張状態を最も美しく表現した箇所として名高い」。そのうえで、『暗夜行路』の次のような一節を紹介している。

 中の海の彼方から海へ突出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はっきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤鱏(あかえい)を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い畑が所々に見え始めた。然し麓の村は未だ山の陰で、遠い所より却って暗く、沈んでいた。謙作は不図、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、恰度(ちょうど)地引網のように手繰られて来た。地を嘗(な)めて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、その儘、平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。