「暑中見舞い」雑感
連日暑い日が続いている。昨日は兵庫県丹波市で41.2度にまで達し、日本の夏の最高気温を更新したとのこと。暑いといった生易しい表現ではその危険性が伝わりにくいためか、連日「危険な暑さ」であると警告が発せられている。昨年の熱中症による死者もとうとう2,000人を超えたという。この暑さでそんなに多くの人々人が亡くなっているとはまったく知らなかった。ここまできたら、もはや災害と言ってもおかしくはなかろう。
ここ数日37度にも達するような暑さが続いていたので、今日のように最高気温が32度だと知ると、何だかほっとする。私は埼玉で生まれ福島で育ったので、夏の暑さにはそれなりの耐性がある。福島も盆地なので昔も夏はかなり暑かったからである。先日の報道では、高温になった地域として福島市の隣の伊達市の名が出ていた。おそらく福島も似たような暑さだったのではあるまいか。家人は東京生まれだが、母親の郷里が群馬県の桐生市なので、こちらも桐生の夏の暑さは知っている。その桐生市も、高温になった地域としてテレビにその名が登場していた。
だから、私も家人も夏男であり夏女である。海や山に出掛けるような元気はもはやないが、例え37度になろうとも暑さをものともせずに連日外出しているが、それでも平気である。食欲が落ちて夏バテするようなこともない。昨日は冊子の作成のための打ち合わせが必要となったので、Yさんに会うためにあざみ野まで出向いてきた。駅の地下にある蕎麦屋で昼食を摂ったが、なかなか美味だった。そして打ち合わせからの帰りに、空を見上げて一面に広がる夏雲を撮った。
こんなふうに暑さの話から文章を綴りだしたら、始めたばかりの「店主のつぶやき」に載せた文章のことをふと思い出した。ブログを始めたことを知らせたのが、2018年8月21日。この同じ日に「遅ればせの暑中見舞い」と題した一文を書いた。すぐにそんな文章を書く気になったのは、「敬徳書院」のサイトを公開することができたので、嬉しくて興奮していたからであろう。当時どんなことを書いたのか、我ながら気になった。探し出したところ、次のような一文だった。
ゼミの卒業生から、きちんとした文章のある暑中見舞いをもらった。この夏唯一の暑中見舞いである。仕事や子育てに日々追われているであろう彼らや彼女らにとっては、年賀状を出すのがせいぜいのはずなのに、暑中見舞いまで寄越すとはなかなか律儀である(笑)。かく言う当の私は、暑中見舞いなど出したことがない。以下の文章は、それに対する返事である。
「毎日暑いですね」といった挨拶が陳腐に思えるほどの暑さですね。「これはもう災害です」と誰かがテレビで叫んでおりましたが、まさにその通り。風水害に加えて、暑害、熱害、炎害などを加えてもいいのでは。暑さしのぎに暑さの表現を調べてみたら、猛暑、炎暑、酷暑、大暑などにとどまらず、激暑、極暑、厳暑なんていう表現もあるんですねえ。面白いものです(笑)。子育てが楽しくなってきたとのこと、よかったですね。暑中見舞いを寄越すところにも、余裕の一端が現れているのでは。小生、すっかり老後の生活になじみ、好きなことを好きなときに好きなだけやれる、という気分だけを味わっております。人生の折り返し点にさしかかれば、あれこれ悩むこともあるでしょう。その悩みの連続こそが人生です(笑)。悔いなき人生を歩まれますよう。一言お礼まで。
こんなふうに返事を書いてきて、急に暑中見舞いのことが気になった。手元の辞書で確認してみたら、「夏の土用の間に、訪問したり手紙を出したりして安否をたずね励ますこと」とあった。私はこれまで、暑中見舞いは手紙を出すことだとばかり思ってきたが、訪問もそうだったのである。初めて知ったことだった。そんな私は、9月1日に中学以来の友人であるKを訪ね、辞書にあったように安否をたずね励ましてきた。励ますとは言っても、私のことだから直ぐにわかるような言葉で励ましたりはしない。そんなことをすれば、同情された彼も嫌がるはずである。
フリーのライターだったKは、体調を崩したうえに足腰が弱ったこともあって、今は相模原にある介護施設に入所している。クルマで1時間半ほどかかる場所なので、せいぜい年に3~4回顔を出す程度である。この夏は、暑さもひどかったうえに雑用も立て込んでいたので、もう少し暑さも和らいで余裕ができたら出掛けようかと思っていた。しかし、それでは何時になるのかわからないような気もしてきて、月が替わったのをきっかけに思い切って出向いてみたのである。いささか大仰な物言いをすれば、意を決してといった感じが無きにしも非ずであった(以下略)。
以上のようなことをブログに書いたのだが、これを読むと、既に7年も前から酷い夏の暑さが災害だと指摘されていたことが分かる。そしてその後事態はさらに悪化している。40度を超える日が珍しくなくなるのも近いのだろう。私が暑中見舞いに顔を出した友人のKは、2022年の2月に亡くなった。そんなことをぼんやりと思い出していたら、別の友人から暑中見舞いのメールがあった。読んでいたら、そこにKのことが触れられていたので驚いた。
暑い夏は、お盆もあって死者を思い出させる季節なのかもしれない。1977年7月16日には長男の淳之も死んだ。今年は戦後80年の年である。戦争による空襲、広島と長崎への原爆の投下、そして敗戦。あまりにも夥しい死のうえに、私や私たちは生きている。そして明日から8月である。立秋を過ぎれば暑中見舞いは残暑見舞いになる。今回のブログは、私から読者の皆さんへの暑中見舞いである。思わぬ災害に遭わぬように、くれぐれも気を付けていただきたい。