「早春の台湾感傷紀行」を書き終えて

 10回にも渡った「早春の台湾感傷紀行」をようやくにして書き終えたので、しばらくはほっとした気分であった。ブログの文章は毎週綴っているので、10回ともなると2ヶ月を超える連載となる。この間季節も晩春から初夏へと移ろいつつある。今年もまた暑い夏となるのであろう。一息入れてから次に手を付けたのは、人文科学研究所の『月報』に掲載してもらうために、ブログの文章を整理し直す作業である。しっかりした論文など元々書けもしないし書く気もないので、出来ることと言えば、余りにみっともないものにならないように、僅かばかり手を加えることだけである。できうれば、読者に「面白い」と感じてもらえるものにしたいとの願望だけはあるのだが、それがなかなか簡単ではない。しばらくそんな作業に明け暮れていたところ、書き残したことがあることに気付いた。そこで『月報』の原稿の末尾に、「追記」として以下のようなな文章を書き加えてみた。そのまま紹介してみる。

 「早春の台湾感傷紀行」をようやく書き終えた後になって、藍博洲 (ラン・ポゥソゥ)の『幌馬車の歌』(間ふさ子・塩森由岐子・妹尾加代訳、草風館、2006年)の存在を知った。『非情城市』や『好男好女』の原作ともなった著作であり、今頃知るとは何とも迂闊な話である。本書は、帯にもあるように「台湾知識人の悲劇-台湾を襲った白色テロを克明に追求した迫真のドキュメント」である。 二・二八事件とその後に続く白色テロに見舞われた関係者からのインタビューのみで構成されたこの異色の著作には、侯孝賢も「記録されたものはすべて存在する」と題した一文を寄せており、「記録されたものは、人間が語った言葉であり、生きた証人である。 勝手に改竄したり抹殺できるなどと思ってはならない。これこそが歴史の目なのだ。この目を持たない世界は一体どのような世界なのか!私には想像だにできない。『幌馬車の歌』は1991年に出版され、今日新版が出された。私はこの一文を以て、藍博洲とともに励みつづけることを誓いたい」と述べている。

 他にも紹介したいところは多々あるのだが、もはやこれ以上長々と原稿を書き続けるわけにはいかない。35歳で銃殺刑に処された鍾浩東が、妻である蒋碧玉に宛てた遺書 (死の12日前の1950年10月2日の深夜に書かれた) だけを紹介しておきたい。これを読んでしまった私には、どうしても素通りすることが出来なかったからである。遺書の末尾は、「私はいつまでも貴女を愛し、貴女を偲び、貴女の幸せを祈っています」で結ばれている。そしてこの遺書は、「鍾浩東や蒋碧玉を始めとした1950年代の政治受難者たち」に捧げられた映画である『好男好女』の、ラストシーンにも登場している。

  蘊瑜 (オンユ) へ

 私は今、重苦しい気持ちでこれをしたためている。貴女と一緒になって早 13年、 長くもあり短くもあり。 抗日戦のあの苦難のさなか、貴女はそのか弱い身体で苦楽を共にし、かれこれ10年近く耐え忍んでくれた。抗日活動にかまけ、子供の養育に当たって何の手助けもできないまま、貴女は一人で自分の責任を全うしてくれた。光復後、台湾に戻ってからは仕事の関係でまた一緒に暮らすこともできず、家のことは全て貴女に任せきりにし苦労をかけてしまった。ここ一年は、今までにまして貴女を苦しめる結果となってしまった。実際、貴女たちがどんな暮らしをしているのか想像するのもそら恐ろしい気がする。面会の折、貴女がまた痩せてしまったように感じた。何もかも全てが、言うなれば…不運だった。

 しかし蘊瑜、私たちにもかつて、かけがえのない煌くような青春の日々があった。 あの頃の思い出と感動は、しばしば私の沈痛な心を和らげてくれる。蘊瑜、苦しい時には何か楽しいことを見つけようではないか! 忍耐は多くの苦難に打ち勝ち、活力を増進することができるから。蘊瑜、どうか驚かないで欲しい。悲嘆に暮れることもない。もし仮に万が一 - 無論これはあくまで仮定の話で現実にならないことを祈るばかりだが- 私の行く末が貴女にとって最も不本意な結果となってしまったら、君はどうするだろうか? 私には容易に想像がつく。貴女の心は言葉で言い尽くせないほどの衝撃を受けて、哀しみの苦海に深く沈んでしまうだろう。しかし私は、貴女が一刻も早くその苦しみから立ち直って力強く生きていってくれることを願っている。

 以上が追記として書き加えた文章である。こんなふうな結末となったので、軽い話や軟らかな文章で書き始めた「早春の台湾感傷紀行」は、重い話や硬い文章で終わることになった。そこに工夫の跡が見られると言えばそう言えなくもないが、いつものパターンであると言えなくもない。しばらく前に、知り合いのAさんから名取弘文の『「雑」には愛がいっぱい』(農山漁村文化協会、1991年)という著作をもらった。そんなわけだから、この私も「雑」文に僅かばかりの愛を感じてはいる(笑)。しかしながら、自由自在に書けるほどの才はないので、大体同じようなスタイルになるのであろう。提出した『月報』の原稿は、編集長の校閲を経て印刷屋さんの手に渡り、しばらくして校正原稿が送られてきた。あっという間である。再校が済めば校了であり、私の手からすっかり離れることになる。

 『月報』の原稿の締め切りはまだ先だから、もう少しのんびりしていても差し支えなかったのだが、早めに手から離そうとしたのには訳がある。毎年9月の初めに刊行しているシリーズ「裸木」の第8号の校正にも、手を付け始める必要があったからである。毎年思うことであるが、できうれば愉しみながら校正をしたいのである。のんびりと落ち着いてゆったりと構えながら、文章をあれこれと推敲していく、そんな至福の時間の到来に心密かに憧れているのである。そのためには余裕を持って校正に取り掛かる必要がある。「老後の道楽」が苦行となるようでは意味がない(笑)。第8号のタイトルは「空と雲と風と」としてみた。この冊子に関する話は次回に譲りたい。「早春の台湾感傷紀行」を終えたのを機に、ブログの文章をもっと短くしたいと改めて思い直したからである。さまざまな色合いの紫陽花にふと目を奪われる、何とも美しい六月である。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/06/14

紫陽花三態(1)

 

紫陽花三態(2)

 

紫陽花三態(3)