早春の南信州紀行(六)-満州国の「建国」と移民の波-
調査旅行の二日目の午後に訪ねた「満蒙開拓平和祈念館」の概要については、既にブログで紹介済みなので、ここで改めて触れることはしない。正直に告白すれば、私はこれまで満蒙開拓なるものの実相については何一つ知ることなく生きてきた。知らなかったのはそれだけではない。ガダルカナルを初め、アッツ、ベリリュー、インパール、フィリピン、硫黄島についても似たようなものだったし、さらに言えば、沖縄についも広島についても長崎についても、凄惨で無残な死の印象ばかりが先行していたためなのか、陰鬱な気分に陥るばかりで、戦争の実相を深く掘り下げて考えてみたことなどほとんどなかったような気がする。
戦後民主主義の教育を受けてきたし、大学入学後は学生運動の影響を強く受けていたので、あの頃から反戦の意識は強かったのだが、今から振り返れば、「戦」の理解が余りにも浅かったように思われるのである。そのためか、「反」もまた表層をなでただけの観念的なものだったかもしれない。「大日本帝国」の総帥として最大の戦争責任を負っていたはずの昭和天皇に対して、不信と嫌悪と侮蔑の念ばかりが募っていたからである。今回「満蒙開拓平和記念館」を訪ねたことをきっかけに、改めて戦争の実相に迫りたくなったのは、上記のような事情による。漫画家の水木しげるは『総員玉砕せよ』の最後で、今まさに死なんとする一兵士に、「誰にみられることもなく」「誰に語ることもできず」「ただわすれ去られるだけ」と言わせ、肉塊が腐り果てて白骨化していく様をリアルに描いているが、死者が忘れ去られるだけでいいはずがない。
満蒙開拓に関する著作や資料は、探せば山のようにある。これほどまでに数多いとはついぞ知らなかった。すぐに手に入る何冊かは、手元に集めて斜め読みしてみた。だが、帯に短し襷に長しとはこのことで、なかなか簡単に全体像を見渡せるものが見つからない。そんな時に、記念館が作成した立派なパンフレットと『証言 それぞれの記憶』を改めて読み直してみた。これらはすべて記念館に展示されていたものだから、訪問した際に目にはしていた。しかしながら、限られた時間のなかで立ったまま読んでもなかなか頭に定着しない。だが、印刷物になれば座って落ち着いて読める。それらに加えて、飯田市歴史研究所編『満州移民 飯田下伊那からのメッセージ』(現代史料出版、2007年)も通読してみた。飯田市が関わっていたので気になったからである。
パンフレットには、「展示室のご案内」 と題した章があり、そこには8つのテーマが掲げられていた。私のように初めて満蒙開拓のことを知るような人間にも、理解しやすい工夫が施されており、しかもとても丁寧に作られていた。満蒙開拓に関する唯一の記念館であると称するだけのことはある。こうしたものを粗略に扱ってはならないだろう。サンタヤーナの言うように、「過去を忘れる者は、それを繰り返す運命にある」からであり、ヴァイツゼッカーの言うように、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」からである。まさに「前事不忘、後事之師」(ぜんじふぼう、こうじのし)と言うべきか。
満蒙開拓のために満州に移住した人々は27万人に及ぶ。そして死者は8万人にも達した。これだけの移住者が生まれ、またこれだけの死者が生まれたのは何故か。まずは、その歴史的な背景を簡単に整理しておこう。昭和のはじめ、アメリカで始まっ た世界恐慌は日本経済に大きな打撃を与えた。特に農村地域は深刻な状況に陥った。例えば日本の近代化を支えていた養蚕業である。農家にとって繭(まゆ)の出荷は現金収入が得られる貴重な仕事であったからである。大正時代の終わり頃まで、日本の輸出主力製品であった生糸の最大の輸出国はアメリカであった。だが、世界恐慌の影響で消費は縮小し端価は大暴落する。それに頼っていた農業収入も激減した。こうした時代に「満州国」が成立するのである。
当時の中国には、陸軍の駐留部隊である「関東軍」がいた。その「関東軍」が、1931(昭和6)年に柳条湖事件を引き起こしたことによって、満州事変が勃発する。日本はまたたく間に満州の全城をほぼ手中に収め、翌32(昭和7)年には「満州国」が建国された。この「満州国」は、「五族協和」(五族とは日、朝、満、蒙、漢の5民族のこと)と「王道楽土」を建国のスローガンに掲げていたが、政府の中枢は勿論のこと地方の諸機関においても実権はすべて日本人が握っていた。その意味ではまさに傀儡(かいらい)国家そのものであったと言えよう。当時、満州に渡れば「20町歩の地主になれる」といった宣伝文句がまことしやかに語られ、夢の大陸への憧れが、新聞や雑誌や映画などの種々のメディアを通じて宣伝されていくのである。「満州ブーム」の到来である。
国際連盟は、日本の侵略的な野望を批判して「満州国」 の成立を否認するが、日本はこれを不服として連盟を脱退。満州への移民に反対していた蔵相の高橋是清が2・ 26事件で暗殺され、軍部の政治的発言力が飛躍的に増大していく。こうした状況下で、関東軍と陸軍省によって「満洲農業移民百万戸移住計画」が立案されるのである。こうして、1936(昭和11)年には満州への移民は国策にまで高められ、満州への移民に拍車が掛かっていく。満州への移民は自由な移民などではなく、まさに国策移民であったのである。その背景には、満州国の治安の維持やソ満国境付近の防衛といった軍事目的があったことは言うまでもない。
そのことを端的に示しているのが、試験段階の移民の名称である。1932(昭和7)年から1935(昭和10)年までの移民は武装移民と呼ばれた。当時、満州には抗日武装集団(日本人は「匪賊」と呼んだ)が各地に存在していたこともあって、移民は主に農業経験のある在郷人(予備役軍人)から選ばれていたのである。その後、満州移民は疲弊した農村の経済更生計画に組み込まれ、補助金と引き換えに分村・分郷開拓団といった自治体単位の集団移民が始まっていく。各県ごとに募集された開拓団もあったが、数が多かったのは、町村が単独で送出した分村開拓団であり、近隣の複数の町村が送出母体となった分郷開拓団である。
人はそう簡単には住み慣れた場所を離れることはない。ましてや海外であり冬には零下30度にもなる寒い満州である。国からの、県からの、村からの積極的な働きかけがあって、初めて移住を決意するに至るのである。分村を決めた村は、目標戸数を達成するため各種団体のリーダーたちを推進役とし、勧誘活動に励んだようである。主に農家の次男や三男らが勧誘された。新天地で生きていくことを決意した人々は、土地や家を処分して大陸に渡って行った。郷土のためや国のためといった大義も、移住を促した要因となっていたかもしれない。
勧誘の際に何が謳われていたのか、整理してみよう。第一に、土地は満州国政府によって斡旋され、また関東軍は責任をもって警備保護の任にあたることになっていること。第二に、満州においては20町歩の自作農となり、希望に満ちた生活が出来ること。第三に、満州移住者は自らの生活をきわめて愉快なものにするのみならず、行き詰まった農村を救い、日本の現状を打開し、更にわが陸の生命線の護りにも大きな力となること。そして第四に、農村の人々、ことに農家の二男三男で、日本内地にいても前途に光明をみとめることの出来ない青少年は、直ちに志を満州に馳せわが国策遂行上の一員となるべきこと。このよう美辞麗句によって扇動され、人々は満州に向かったのである。
しかしながら、1937(昭和12)には盧溝橋事件が勃発し、日本は中国との全面戦争に突入していく。その結果、戦争に兵士を大量に動員しなければならず、それに加えて戦時景気にともない労働力の需要が拡大したために、成人の移民を確保することが難しくなっていく。そこに登場したのが満蒙開拓青少年義勇軍であった。不足した成人の移民を補充する目的であったにもかかわらず、義勇軍と呼ばれたのは何故か。日中戦争の遂行のためには、徴兵年齢に達しない数え年16歳から19歳の若者をも動員する必要に迫られていたからである。義勇隊が入植した場所の多くはは、ソ連の国境近くであったことからもわかるように、彼らはいざという時には武器をとり戦う国境警備の任務に充てられたのである。
建前は自由応募であったが、学校に割当数が下ろされ、教師が卒業生に自発的に応募することを求めた。自発的であることが強制されたのである。この結果、1938(昭和13)年から1945(昭和20)年までの8年間に、86,000名もの青少年が満州に送られた。この数は移民総数の3割を占めている。上記のような話を踏まえて、「貧しさからの脱却」とのタイトルが付されたある村人の「証言」を読んでみると、当時の状況があまりにもリアルに浮かび上がってくる。
俺の親父は大工だったんだけど、ちょうど昭和7、8年頃から景気が悪くなって仕事がなくなっちゃったの。8人も子どもがおって10人家族。とても親父一人の給料じゃ食べていけんとなって。親たちはお金を前借りして俺たちは働きに出されたの。6年生卒業して、 13歳でな。俺たちのクラスは50人くらいだったけども、そのうちの約1割はそういう人たちがいたね。高等科に行ったのは半分くらいおったかしらん。中学へは3人か4人くらいしか行けなかった。 うらやましくて・・・、あいつが中学に行けるんだから、俺なんかあいつには負けないんだがって。泣きの涙で学校やめて働きに出たわけだ。
村で満州移民の話が出て。村の偉い人たちが家に来てしきりに 「お前さんたちこそ満州へ行くべきだ」ってすすめてくれた。日本じや仕事がない、満州へ行ったら20町歩の田畑をくれるんだから、 20町歩の大地主になれるんだって。20町歩って、見当もつかなんだ(つかなかった)、いったいどれくらいなんだか、20ヘクタールだからな。ここらじゃ五反百姓(1反=1町の10分の1)って1町歩も必要なかったくらいだった。そんな大地主になれるんなら、こんなに苦しむことはない、それじゃあ満州行こうってことになった。
母親はいやだったようだけどね。あの時はああするしかなかったんだな。日の丸へ寄せ書きしてくれて、兵隊さん送ってくれるみたいに盛大に送ってくれたんだ。10数世帯一緒に行ったんじゃないかな。新潟へ行って、たしかわね、「満州丸」っていう大きな船が来て。今でも目に浮かぶけど、赤い夕陽に向かってでかけました。日本が見えなくなるまで、ずっと甲板に立ち尽くして。

